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矢口小学校
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矢口小学校の歴史(開校130周年に向けて)

更新日:2020年12月8日

臨時休校中(りんじきゅうこうちゅう)の学習(がくしゅう)のひとつとして、このページに矢口小学校の歴史(れきし)を連載(れんさい)していきます。
学習(がくしゅう)のまとめとして、新聞形式(しんぶんけいしき)や、自学(じがく)ノートなど、作(つく)ってみませんか。
まとめたら、校長先生(こうちょうせんせい)や担任(たんにん)の先生(せんせい)に、ぜひ見(み)せてくださいね。
校長先生(こうちょうせんせい)からは、がんばった記念(きねん)のシールがもらえます。

明治時代の矢口小学校 目次(もくじ)

大正時代の矢口小学校 目次(もくじ)

昭和時代の矢口小学校 目次(もくじ)

戦後(せんご)の矢口小学校 目次(もくじ)

明治時代(1868年 明治元年から)の矢口小学校

(1) 薫泉(くんせん)小学校のはじまり

日本が江戸時代(えどじだい)から明治時代(めいじじだい)に変わったのは、1868年(明治元年)でした。
それから5年たった1872年(明治5年)に、学制(がくせい)という国のきまりができました。
この学制(がくせい)によって、小学校をつくって、子どもたちに教育(きょういく)を受(う)けさせることが、「国民の義務(こくみんのぎむ)」となりました。
「村(むら)には、学校にいかない家(いえ)がないように、家には学校にいかない人がいないように。」と決(き)められました。

1878年(明治11年)に、矢口のまわりの村々(矢口村・今泉村・安方村・古市場村・原村・下丸子村・小林村・蓮沼村)の人たちがお金を出しあい、、まずはじめに薫泉小学校(くんせんしょうがっこう)ができました。
学校は、今泉村(いまいずみむら)の原さんの家が大きな農家(のうか)だったので、その家をかりて学校にしました。
教室(きょうしつ)は、今の教室)きょうしつ)の半分くらいの大きさの部屋(へや)が、3部屋(へや)あっただけの小さなものでした。
ここで初(はじ)めて勉強(べんきょう)した子どもたちは、全部(ぜんぶ)で72名。
ほとんどは男子(だんし)で、女子(じょし)は10名ほどであったそうです。
年齢(ねんれい)は、7才から15才までの子どもたちが通(かよ)っていたそうです。


薫泉小学校 初期平面図

(2) 明林(めいりん)小学校が分かれる

1880年(明治13年)に、薫泉(くんせん)小学校から学校が分(わ)かれた薫泉分校(くんせんぶんこう)として、少(すこ)しはなれた地(ち)いきに「明林小学校(めいりんしょうがっこう)」という学校がつくられました。
場所(ばしょ)は、小林村(こばやしむら)の金剛院本堂(こんごういんほんどう)でした。今の新蒲田(しんかまた)2丁目3番地です。
明林小学校は、年に3回、定期試験(ていきしけん)があり、この試験(しけん)に合格(ごうかく)すると、一級上(いっきゅううえ)の学年に進(すす)めました。明林小学校ができたときの子どもの数(かず)は88名でした。
校舎(こうしゃ)として使(つか)っていた金剛院(こんごういん)は、1881年(明治14年)に火事(かじ)になりました。
そのため、4教室(きょうしつ)ある草(くさ)ぶきの学校を新築(しんちく)しました。このため、まわりの学校とくらべても、すばらしい校舎(こうしゃ)となりました。


金剛院本堂

(3) 矢口小学校のたんじょうのころ

1890年(明治23年)5月に、矢口村(やぐちむら)の近(ちか)くにあった九つの村がいっしょになって、大きな矢口村となりました。
そして、矢口村としてひとつにまとまるために、薫泉(くんせん)・明林(めいりん)の二つの公立小学校(こうりつしょうがっこう)をいっしょにして、矢口小学校をつくることになりました。
1891年(明治24年)4月1日、校舎(こうしゃ)が完成(かんせい)し、6月1日から授業(じゅぎょう)が始(はじ)まりました。11月21日には開校式(かいこうしき)が行われました。
初代(しょだい)と、四代目の校長である、宇田川峯三郎(うだがわみねさぶろう)先生は、1891年(明治24年)から1901年(明治34年)、そして1904年(明治37年)から1908年(明治41年)矢口小学校の校長として勤(つと)められ、校内(こうない)だけでなく、広(ひろ)く村人(むらびと)からも信頼(しんらい)されていました。
宇田川先生は1922年(大正10年)、62才でなくなられました。お墓(はか)は現在(げんざい)の延命寺(えんめいじ)にあります。
学校の授業(じゅぎょう)は、宇田川(うだがわ)先生、他3名の先生によって行(おこな)われました。
教科(きょうか)は、修身(しゅうしん)、読本(とくほん)、作文(さくぶん)、習字(しゅうじ)、算術(さんじゅつ)、体操(たいそう)の6教科(きょうか)でした。


初代校長 宇田川峯三郎 先生

(4) 最初(さいしょ)の校舎(こうしゃ)

1891年(明治24年)の矢口小学校の最初(さいしょ)の校地(こうち)は、安方(やすかた)323番地(ばんち)で、現在(げんざい)の矢口小学校の東側(ひがしがわ)にあたり、今の学校の場所(ばしょ)と、いくらもはなれていないところでした。
そこに、明林小学校(めいりんしょうがっこう)の校舎(こうしゃ)を移(うつ)して、5教室(きょうしつ)に増改築(ぞうかいちく)しました。
教室(きょうしつ)といっても、今(いま)とはかなりちがって、ふつうの家(いえ)と同(おな)じような、縁側(えんがわ)の廊下(ろうか)がありました。
そして、窓(まど)はガラス戸(ど)ではなく、紙(かみ)の障子(しょうじ)と雨戸(あまど)でした。
学校のまわりは竹垣(たけがき)でかもまれており、すぐ近(ちか)くから、畑(はたけ)がつづいていました。
つまり、学校のまわりはほとんど、今の矢口自然農園(やぐちしぜんのうえん)のような景色(けしき)だったようです。


創立当初の校舎想像図

(5) 校舎(こうしゃ)の増改築(ぞうかいちく)

1891年(明治24年)のころ120名くらいだった児童数(じどうすう)は、1897年(明治30年)ころから170名をこえ、1904年(明治37年)ころには300名ちかくにふえました。
それにともなって、校舎(こうしゃ)を広(ひろ)げなくてはならなくなりました。
1901年(明治34年)6月には、補習科(ほしゅうか)という授業(じゅぎょう)クラスをやめて、二年制(にねんせい)の矢口高等小学校(こうとうしょうがっこう)が、十寄神社(じゅっきじんじゃ)(現在の矢口2丁目17番地)の南側(みなみがわ)につくられました。
しかし、経費(けいひ)がかかるため、これをやめて、矢口小学校の中に高等科(こうとうか)がおかれました。
増改築(ぞうかいちく)が間(ま)に合(あ)わないときは、半日(はんにち)学校、つまり、前半(ぜんはん)・後半(こうはん)の二部授業(にぶじゅぎょう)を行(おこない)いました。


荏原郡 矢口尋常・高等小學校

(6) 校舎(こうしゃ)の移転(いてん)

1907年(明治40年)3月に、学校の場所(ばしょ)を小林町四番地(こばやしちょうよんばんち)に移(うつ)しました。
ここは、現在(げんざい)の矢口渡駅東(やぐちのわたしえきひがし)ふみきりの南側(みなみがわ)になります。
この校舎(こうしゃ)は、全部(ぜんぶ)が瓦(かわら)ぶき、ガラス窓(まど)つくりで、このころとしては、とても立派(りっぱ)なものでした。
この校舎(こうしゃ)ができても、すぐに全校生(ぜんこうせい)が学(まな)ぶためには、教室(きょうしつ)が足(た)りなくなってしまい、元(もと)の高等小学校(こうとうしょうがっこう)を分教場(ぶんきょうじょう)として、低学年(ていがくねん)が使(つか)いました。
1908年(明治41年)から、それまで四年制(よねんせい)だった尋常科(じんじょうか)が、六年制(ろくねんせい)に変(か)わりました。
その時(とき)に書(か)かれた「矢口小学校」の校名板(こうめいばん)は、今でもそのまま学校の中央玄関(ちゅうおうげんかん)のかべに掲示(けいじ)してあります。

※小学校制度
1872年(明治5年)から下等小学(4年間)・上等小学(4年間)
1879年(明治12年)から初等科(3年間)・中等科(3年間)・高等科(3年間)
1886年(明治19年)から尋常小学校(4年間)・高等小学校(4年間)・・・尋常小学校が義務教育
1907年(明治40年)から尋常小学校(6年間)・高等小学校(2年間)・・・尋常小学校が義務教育


正面玄関の校名板

(7) 明治時代(めいじじだい)の矢口小学校の子どもたちのようす・1

当時(とうじ)は、どの家(いえ)も農作業(のうざぎょう)がいそがしくて、子どもたちも、いっしょうけんめいに手伝(てつだ)わなくてはなりませんでした。
田植(たう)えの時期(じき)や稲刈(いねか)りの時(とき)には、学校(がっこう)も15~20日くらいは休(やす)みになりました。
なかには、家(いえ)の手伝(てつだ)いのために、小学校入学(しょうがっこうにゅうがく)を1,2年おくらせる子や、途中(とちゅう)で学校をやめてしまう子もいました。

通学(つうがく)の服(ふく)そうは着物(きもの)で、わらぞうりや竹(たけ)の皮(かわ)のぞうりをはいていました。
今のようにくつをはいてくる子はいませんでした。雨(あめ)の日(ひ)には、「みのがさ」や「ばんがさ」をさしました。
ランドセルはなくて、ふろしきに弁当(べんとう)・半紙(はんし)・本(ほん)・石版(せきばん)・石筆(せきひつ)・筆(ふで)などを包(つつ)んで持(も)ってきました。

授業(じゅぎょう)は、修身(しゅうしん)が一番大切(いちばんたいせつ)に考(かんが)えられていて、礼儀作法(れいぎさほう)がきびしく教(おし)えられました。
読本(とくほん・・・本をよむこと)でも、本は目(め)の高(たか)さより上(うえ)に、おしいただいてから読(よ)んでいました。
習字(しゅうじ)では、半紙(はんし)を15~20枚(まい)とじこんだ草紙(そうし・・・ノートのようにとじたもの)に、筆(ふで)で何回(なんかい)も書(か)きました。
半紙(はんし)が真っ黒(まっくろ)になっても、それをかわかして、その上(うえ)からまた書(か)いて練習(れんしゅう)しました。紙(かみ)をとても大切(たいせつ)に使(つか)っていたのです。


ぞうり

(8)  明治時代(めいじじだい)の矢口小学校の子どもたちのようす・2

算術(さんじゅつ)の勉強(べんきょう)は、石版(せきばん)に石筆(せきひつ)を使(つか)って書(か)きながら計算(けいさん)をしました。
終(お)わると小(ちい)さな黒板消し(こくばんけし)で消して、くりかえし使(つか)いました。
ノートや鉛筆(えんぴつ)は値段(ねだん)が高(たか)くて、ほとんど使(つか)えませんでした。

体操(たいそう)は、整列(せいれつ)の仕方(しかた)、かけっこ、幅(はば)とびなどを行(おこな)いました。
たくさんの学校が集(あつ)まって行(おこな)う連合運動会(れんごううんどうかい)は、世田谷(せたがや)の九品仏(くほんぶつ)で行(おこな)われました。
競技(きょうぎ)は、つなひきとかけっこぐらいなものでした。
子どもたちは、竹(たけ)の皮(かわ)のぞうりを買(か)ってもらって、弁当(べんとう)をふろしきに包(つつ)んで出(で)かけるのが、とても楽(たの)しみだったようです。

このころの子どもたちの遊(あそ)びは、こままわし、たこあげ、近(ちか)くを流(なが)れていた六郷用水(ろくごうようすい)での魚(さかな)とり、水泳(すいえい)、せみとり、とんぼとりなどでした。
女子(じょし)はお手玉(てだま)でよく遊(あそ)びました。
矢口小学校は今でも自然(しぜん)にめぐまれていますが、このころは、今以上(いまいじょう)に多(おお)くの自然(しぜん)にめぐまれ、手近(てぢか)なものを使(つか)って、子どもたちで工夫(くふう)して遊(あそ)ぶことが多(おお)かったのです。


石板と石筆

今の六郷用水跡(第2京浜国道沿い)

六郷用水物語の碑

今の六郷用水跡(安方郵便局前の道路)

上の3枚の写真は、今の矢口小学校の学区域内にあります。
どこにあるか知っていますか?
【六郷用水物語 測量・杭打ち  たて長の碑に書かれている文】
1597年(慶長2年)2月4日から始まった堀筋の測量・杭打ちは、下流地域から六郷用水と二ヶ領用水とが交互に実施され、その後2年を要して完了しています。
測量は夜間に提灯をともして木に登り、その明かりを使って高低差や方位を図ったといわれています。

大正時代(たいしょうじだい 1912年 大正元年から)の矢口小学校

(1)  台風(たいふう)のため校舎(こうしゃ)がたおれる

大正時代(たいしょうじだい)になっても、明治からひきつづき、本校(ほんこう)と分教場(ぶんきょうじょう)に分(わ)かれて、300人近(ちか)い児童(じどう)が、6人の先生(男4名、女2名)の指導(しどう)を受(う)けていました。
1917年(大正6年)9月30日、真夜中(まよなか)から台風(たいふう)の被害(ひがい)で、本校(ほんこう)の東側(ひがしがわ)半分(はんぶん)が倒(たお)れてしまいました。
こわれた校舎(こうしゃ)を大修理(だいしゅうり)したり、つっかえ棒(ぼう)をしたり、分教場(ぶんきょうじょう)で二部授業(にぶじゅぎょう)や三部授業(さんぶじゅぎょう)をして、何(なん)とか学習(がくしゅう)を進(すす)めました。

【1917年(大正6年)の台風の様子について】
東京では10月1日午前3時に最大風速39.6m/秒を観測、銚子で50.8m/秒を観測した。
それにより10月1日夜半、東京湾では十五夜の大潮と重なったこともあり、観測史上最大の前後2回にわたる高潮を記録し、その高さは、築地の霊岸島付近で東京湾平均海面+3.1mに達した。
築地沿岸には大小の船舶が打ち上げられ、月島から深川洲崎及び荒川と江戸川に挟まれた葛西地区では、ほとんどの家が床上浸水となり、中には軒下まで浸水した家も少なくなかった。
この高潮と暴雨風により東京市内だけで215平方kmが浸水、東京市を含む府下(現・都下)の被害は504人死亡、58人行方不明、961人負傷、家屋全潰4019戸、同流失1087戸、同床上浸水13万1334戸(内務省調べ)、道路決壊延べ1.66km、堤防決壊延べ7.7km、橋梁流失89か所の被害となった。
(引用参照「防災情報新聞」無料版 http://www.bosaijoho.jp/)

(2) 広(ひろ)い敷地(しきち)に二階建て(にかいだて)の校舎(こうしゃ)

大正時代(たいしょうじだい)のころは、学校(がっこう)はその村(むら)が建(た)てなければなりませんでした。
そのため、建て直し(たてなおし)については、いろいろな問題(もんだい)がありました。
まず、新(あたら)しい校舎(こうしゃ)をどこに建(た)てるかということで、今(いま)の場所(ばしょ)に決(き)まるまでに3年以上(ねんいじょう)の年月かかかりました。
1920年(大正9年)12月、地主(じぬし)さんの好意(こうい)により、3,300坪(つぼ)の校地(こうち)がやっと決(き)まり、工事(こうじ)にとりかかりました。
しかし、低(ひく)い水田(すいでん)だった場所(ばしょ)のため、土盛り(つちもり)をしなければならず、敷地(しきち)の一部(いちぶ)を約(やく)300坪(つぼ)ばかり掘(ほ)って間(ま)に合(あ)わせました。
その堀(ほ)った跡(あり)が大(おお)きな池(いけ)になってしまい、ボールなどがよくとびこんで困(こま)ったそうです。
この池(いけ)は、多摩川(たまがわ)の堤防(ていぼう)を作(つく)る時(とき)に合(あ)わせて埋(う)めたので、今(いま)はありません。
校舎(こうしゃ)は2階建て(にかいだて)にしたので、予定(よてい)した金額(きんがく)では足(た)りなくなってしまいました。
そこで、村長(そんちょう)や村会議員(そんかいぎいん)をはじめ、村(むら)の主(ぬし)だった人々(ひとびと)は、自分(じぶん)の仕事(しごと)を投(な)げ打(う)って、寄付金(きふきん)集(あつ)めに走(はし)り回(まわ)りました。
その結果(けっか)、55,573円もの寄付金(きふきん)が集(あつ)まりました。
このように、校舎(こうしゃ)を建(た)てるための、村民(そんみん)の協力(きょうりょく)も大変(たいへん)なものでした。
こうして、1922年(大正11年)4月、当時(とうじ)としては、かなり立派(りっぱ)な2階建て(にかいだて)、ストレート瓦(かわら)ぶき、ガラス窓(まど)の荏原郡(えばらぐん)随一(ずいいち)の学校(がっこう)が誕生(たんじょう)したのです。

※大正9年ころの55,573円は、今のお金にすると、約3千万円くらいになります。


1922年(大正11年)校舎平面図

(3) 関東大震災(かんとうだいしんさい)のころ

1923年(大正12年)9月1日、2学期(がっき)の始業式(しぎょうしき)の日のことです。
午前11時58分ころ、関東地方(かんとうちほう)に大きな地震(じしん)が起(お)きました。
家(いえ)の軒先(のきさき)が地面(じめん)につくかと思(おも)うほどの大きなゆれがありました。
それでも矢口小学校の校舎(こうしゃ)は倒(たお)れませんでした。

関東大震災(かんとうだいしんさい)のあとは、矢口村(やぐちむら)の人口(じんこう)が目立(めだ)って増(ふ)えていきました。
それは、東京(とうきょう)の中央部(ちゅうおうぶ)で地震(じしん)の被害(ひがい)を受(う)けた人々(ひとびと)が、郊外(こうがい)に移(うつ)ってきたことや、目蒲線(めかません)が全線開通(ぜんせんかいつう)して、交通(こうつう)の便(べん)がよくなったことが主(おも)な原因(げんいん)でした。
そのため、1925年(大正14年)ころには、児童数(じどうすう)も大変(たいへん)増(ふ)えてしまいました。
そこで、応急(おうきゅう)の対策(たいさく)として、旧校舎(きゅうこうしゃ)を改築(かいちく)して2教室の仮教室(かりきょうしつ)にし、また、本校(ほんこう)敷地内(しきちない)にはバラック建(た)ての校舎(こうしゃ)を建(た)て、3教室を作(つく)りました。

※目蒲線・・・このころは、目黒駅から蒲田駅まで東京急行電鉄が通っており、目蒲線といった。関東大震災直後の1923年(大正12年)11月1日に開通した。2000年(平成12年)8月6日に目黒線と多摩川線に分かれて、目蒲線という名前はなくなった。


昔の矢口渡駅

(4) ますます足(た)りなくなる教室(きょうしつ)

1925年(大正14年)に仮校舎(かりこうしゃ)を増設(ぞうせつ)して1年もたたないうちに、さらに児童数(じどうすう)が増(ふ)えたため、本校舎(ほんこうしゃ)の西側(にしがわ)に6教室(きょうしつ)を建(た)てることになりました。
これが第1期増築(だいいっきぞうちく)です。
毎年(まいねん)の小学校の増築(ぞうちく)で、矢口村(やぐちむら)は経済(けいざい)、つまりお金(かね)のやりくりに大変(たいへん)な苦労(くろう)をしました。
この年(とし)、矢口小学校だけでは足(た)りなくなり、矢口東(やぐちひがし)小学校が建(た)てられることが決(き)まりました。
第1期増築(だいいっきぞうちく)の校舎(こうしゃ)が完成(かんせい)した1926年(大正15年)10月31日には、児童数(じどうすう)が852名となりました。
このころの矢口村(やぐちむら)全体(ぜんたい)の家(いえ)の戸数(こすう)は2290戸(下丸子232戸をふくむ)で、人口(じんこう)は8769人でした。
大正の初(はじ)めころの戸数(こすう)が488戸、人口(じんこう)3614人でしたから、大正時代(たいしょうじだい)のたった15年間(ねんかん)で急(きゅう)に発展(はってん)したことがわかります。


大正12年の矢口周辺地図

(5)  大正時代(たいしょうじだい)の子どもたちのようす・1

子どもたちが学校(がっこう)へ来(く)る服装(ふくそう)は、袴(はかま)をはいていた女子(じょし)が2人くらいいただけで、ほとんどの子どもは着物(きもの)に帯(おび)でした。なかには黒(くろ)いそでのある前(まえ)かけをしている子もいました。
男(おとこ)の先生(せんせい)はつめえりの洋服(ようふく)でした。
腰(こし)に長(なが)い手(て)ぬぐいと煙管(きせる)をぶらさげ、下駄(げた)をはいた先生(せんせい)も中(なか)にはいたそうです。
親(おや)は、勉強(べんきょう)よりも、家(いえ)の仕事(しごと)を第一(だいいち)に考(かんが)え、忙(いそが)しいときはすぐ学校(がっこう)を休(やす)ませました。
小(ちい)さい妹(いもうと)や弟(おとうと)をつれて学校(がっこう)に来(く)る子もいました。
悪(わる)いことをすると、先生(せんせい)にバケツを持(も)って立(た)たされることもありました。

※『煙管(きせる)』とは、タバコを吸(す)うためのパイプのこと


大正時代の集合写真

(6)  大正時代(たいしょうじだい)の子どもたちのようす・2

当時(とうじ)の教科書(きょうかしょ)には、修身(しゅうしん)・読本(とくほん)・書き方(かきかた)・算術(さんじゅつ)・日本歴史(にほんれきし)・地理(ちり)・絵画(かいが)がありました。

遠足(えんそく)では、1年生は池上本門寺(いけがみほんもんじ)、2年生は川崎大師(かわさきだいし)まで歩(ある)いて行(い)きました。
6年生は乗り物(のりもの)に乗(の)って、箱根(はこね)へ行(い)きましたが、年(とし)によっては行(い)かないこともありました。

運動会(うんどうかい)は、今(いま)のように校庭(こうてい)で行(おこな)いました。
地域(ちいき)の青年団(せいねんだん)と合同(ごうどう)のことが多(おお)かったようです。
綱引(つなひ)きは、校庭(こうてい)の片方(かたほう)が高(たか)くなっていたため、勝(か)つ方(ほう)が決(き)まってしまうため、どちら側(がわ)で引っ張る(ひっぱる)かで、いつもけんかしていたそうです。

学芸会(がくげいかい)は、みんな楽(たの)しみにしていて、いっしょうけんめい練習(れんしゅう)しました。
2教室(きょうしつ)をぶちぬいた会場(かいじょう)をつくり、村長(そんちょう)、村会議員(そんかいぎいん)、駐在(ちゅうざい)さん、そのほか大(おお)ぜいの人(ひと)が弁当持ち(べんとうもち)で見(み)にきました。


このころの池上本門寺

(7)  大正時代(たいしょうじだい)の子どもたちのようす・3

学校(がっこう)での遊(あそ)びは、騎馬戦(きばせん)・ジャンケンとび・石(いし)けり・なわとび・くちく水雷(すいらい)・なんこなんこ・お手玉(てだま)・紙(かみ)ふうせん・おはじきなどでした。
おもちゃがなかったので、穴(あな)あき銭(せん)でコマを作(つく)ったり、津花(つばな)を束(たば)にして遊(あそ)びました。
家(いえ)では子守(こも)りや手伝(てつだ)いで、ほとんど遊(あそ)ぶことはありませんでした。
夏(なつ)は馬(うま)のえさにする草刈(くさか)りをして、その草(くさ)を売(う)りました。
麦(むぎ)わらで、つと編(あ)みもしました。六郷用水(ろくごうようすい)はきれいで、胸(むね)の所(ところ)まで水(みず)があり、多摩川(たまがわ)もきれいで泳(およ)げました。
新田神社(にったじんじゃ)の裏(うら)は沼地(ぬまち)になっていて、それをはさんで矢口の子どもと下丸子(しもまるこ)の子どもが、石(いし)を投(な)げ合(あ)い、よくけんかをしていたそうです。

※『くちく水雷(すいらい)』とは、軍艦(ぐんかん)の特性(とくちょう)をじゃんけんのような三(さん)すくみで応用(おうよう)した、鬼(おに)ごっこと戦争(せんそう)ごっこをあわせた屋外遊び(おくがいあそび)の一種(いっしゅ)。
第二次世界大戦前(だいにじせかいたいせんまえ)から昭和40年代に入(はい)ったころまで男子(だんし)の間(あいだ)でさかんに遊(あそ)ばれた。

※『なんこなんこ』とは、みんなに同(おな)じ数(「かず」だけの豆(まめ)を用意(ようい)する。
豆(まめ)がなければドングリとかでもよい。
「なんこなんこ」と言(い)いながら人(ひと)に見(み)えないように後ろ手(うしろで)でいくつかにぎる。
全員(ぜんいん)で合(あ)わせて何個(なんこ)握(にぎ)っているのかを予想(よそう)して、順番(じゅんばん)に数(かず)を言(い)う。
「いっせーの」で各自(かくじ)握(にぎ)った手(て)を出(だ)して開(ひら)く。
数(かず)を当(あ)てた人(ひと)が、その時(とき)の豆(まめ)を全部(ぜんぶ)もらえる遊(あそ)び。

※『つと編(あ)み』とは、ビールびんが割(わ)れないようにかぶせるため、「つと」という納豆(なっとう)を包(つつ)むような筒(つつ)を、わらで編(あ)むこと。

(8)  校章(こうしょう)が決(き)まった1917年(大正6年)

制定年月日(せいていねんがっぴ) 1917年(大正6年)6月1日
考案者(こうあんしゃ) 第8代校長 三浦 茂三郎(みうら しげさぶろう)先生

・矢車(やぐるま)が矢口(やぐち)の「矢(や)」を、中央(ちゅうおう)の円(えん)は「口(くち)」を表(あらわ)している。その口(くち)の中(なか)に校名(こうめい)の矢口(やぐち)の字(じ)を入(い)れた。
・東京府(とうきょうふ)矢口小学校の東(とう)と矢(や)を図案化(ずあんか)して入(い)れた。
・矢(や)が健全(けんぜん)な身体(からだ)、ペンが豊(ゆた)かな知性(ちせい)を象徴(しょうちょう)し、心身両面(しんしんりょうめん)の向上(こうじょう)を願(ねが)っている。


校章


校章の意味

昭和時代(しょうわじだい 1926年 昭和元年から)の矢口小学校

(1) 昭和(しょうわ)のはじめころ

1926年(大正15年)2月15日、大正天皇(たいしょうてんのう)が亡(な)くなられ、そのあとは昭和時代(しょうわじだい)となりました。
世(よ)の中(なか)は大変(たいへん)に不景気(ふいけいき)になっていましたが、人口(じんこう)は増(ふ)え続(つづ)けていました。
矢口小学校にも入学(にゅうがく)する児童(じどう)が多(おお)く、1926年(大正15年)に教室(きょうしつ)を増築(ぞうちく)したばかりでしたが、すぐにぎゅうぎゅうづめになってしまいました。
そのため、1927年(昭和2年)に第二京浜国道(だいにけいひんこくどう)のそばに、8教室(きょうしつ)をつくりました。
その教室(きょうしつ)は、1963年(昭和38年)まで使い、取(と)りこわされました。
8教室(きょうしつ)をつくったあとも、児童(じどう)は増(ふ)え続(つづ)けました。
1927年(昭和2年)に矢口東小学校(やぐちひがししょうがっこう)ができ、矢口小学校から170名ぐらいの児童(じどう)が移(うつ)りました。
それでもまだまだ児童数(じどうすう)が多(おお)かったため、1931年(昭和6年)には、矢口西小学校(やぐちにししょうがっこう)へ学区域(がっくいき)を分(わ)けるほどでした。
1932年(昭和7年)、東京府(とうきょうふ)から東京市(とうきょうし)になり、35区ができました。
そこで、校名も東京市立矢口尋常高等小学校に変(か)わりました。
この年(とし)、国語(こくご)の読本(とくほん)が初(はじ)めて色(いろ)のついたものになりました。
昭和のはじめころの勉強(べんきょう)は、大正時代(たいしょうじだい)のころとほとんど同(おな)じでした。
1934年(昭和9年)には、さらに児童数(じどうすう)が増(ふ)え、講堂(こうどう)1、理科室(りかしつ)1、普通教室(ふつうきょうしつ)8が建(た)てられました。


昭和9年にできた講堂と教室棟

(2) 昭和(しょうわ)初(はじ)めの矢口の教育(きょういく)

第11代校長の小関森之助(おぜきしんのすけ)先生は、昭和6年から昭和20年10月までの約(やく)15年間(ねんかん)、矢口小学校の教育(きょういく)に熱意(ねつい)を燃(も)やして取(と)り組(く)みました。
このころの学校教育目標(がっこうきょういくもくひょう)は、健康(けんこう)、勤勉(きんべん)、誠実(せいじつ)でした。
「じょうぶで、まじめなこころをもち、いっしょうけんめい働(はたら)く子(こ)になりましょう」ということです。
このころの様子(ようす)は、昭和10年に発行(はっこう)された学校通信使(がっこうつうしんし)の「明泉(めいせん)」にくわしく書(か)かれています。
学校だよりの名前(なまえ)は、今(いま)では「薫泉(くんせん)」になっています。


第11代校長 小関森之助 先生

(3) 昭和時代(しょうわじだい)はじめの子どもたちのようす

このころ(約90年前)の子どもたちの体(からだ)の大(おお)きさです。

【1937年(昭和12年)の平均身長(へいきんしんちょう)】
(小1)112センチメートル (小2)117センチメートル (小3)122センチメートル (小4)127センチメートル (小5)132センチメートル (小6)136センチメートル

【2017年(平成29年)の男子(だんし)の平均身長(へいきんしんちょう)】
(小1)116センチメートル (小2)122センチメートル (小3)128センチメートル (小4)133センチメートル (小5)139センチメートル (小6)145センチメートル

【2017年(平成29年)の女子(じょし)の平均身長(へいきんしんちょう)】
(小1)115センチメートル (小2)121センチメートル (小3)127センチメートル (小4)133センチメートル (小5)140センチメートル (小6)147センチメートル

こう見(み)ると、かなり小(ちい)さかったことがわかります。
昭和(しょうわ)の初(はじ)めの服(ふく)そうは、大正時代(たいしょうじだい)のころと変(か)わりませんでしたが、洋服(ようふく)を着(き)てくる子(こ)や、筒袖(つつそで)の着物(きもの)を着(き)てくる子(こ)もいました。
女(おんな)の先生(せんせい)は、着物(きもの)に袴(はかま)で、くつをはいていました。

(4) 学校生活(がっこうせいかつ)のようす

昭和(しょうわ)のはじめころの学級(がっきゅう)では、級長(きゅうちょう)、副級長(ふくきゅうちょう)という学級(がっきゅう)のリーダーが、学校(がっこう)の先生方(せんせいがた)で決(き)めて、学期(がっき)のはじめに発表(はっぴょう)されました。
児童用(じどうよう)図書(としょ)では、曽呂利新左衛門(そろりしんざえもん)、猿飛佐助(さるとびさすけ)、孫悟空(そんごくう)、里見八犬伝(さとみはっけんでん)、水戸黄門(みとこうもん)などが、よく読(よ)まれていました。
遊(あそ)びでは、ドッジボール、メンコ、チャンバラ、野球(やきゅう)、リレーなどをして楽(たの)しんでいました。
また、年上(としうえ)の子(こ)どもたちが中心(ちゅうしん)になって、自分(じぶん)たちで材料(ざいりょう)をさがし、竹馬(たけうま)やたこ、めんこなどを作(つく)り、年下(としした)の子(こ)の世話(せわ)をしながら遊(あそ)んでいました。
このころは、買(か)ったおもちゃで遊(あそ)ぶよりも、手作(てづく)りのおもちゃで遊(あそ)ぶことがほとんどでした。

このように、年上(としうえ)の子(こ)が、年下(としした)の子(こ)の世話(せわ)をするということは、2020年(令和2年)の矢口小でも同(おな)じで、よき伝統(でんとう)のひとつとして残(のこ)していきたいですね。


「曽呂利新左衛門」

(5) 太平洋戦争(たいへいようせんそう)のころのくらし(1939年12月8日から1945年8月15日)

1937年(昭和12年)、日本(にほん)と中国(ちゅうごく)の間(あいだ)に始(はじ)まった戦争(せんそう)は、その後(ご)、どんどん大(おお)きくなり、1941年(昭和16年)12月8日には、太平洋戦争(たいへいようせんそう)にまでなっていきました。
アメリカやイギリスなどの連合国(れんごうこく)を相手(あいて)にした日本(にほん)は、戦争(せんそう)が進(すす)むにつれて、戦争(せんそう)にも生活(せいかつ)にも必要(ひつよう)なものが無(な)くなっていきました。
食べ物(たべもの)も着る物(きるもの)も無(な)くなり、配給(はいきゅう)という、国(くに)に決(き)められたものだけしか手(て)に入(はい)らなくなっていきました。


太平洋戦争開戦(真珠湾攻撃)

(6)  矢口国民学校(やぐちこくみんがっこう)

1941年(昭和16年)4月1日から、それまでの矢口尋常高等小学校(やぐちじんじょうこうとうしょうがっこう)という名前(なまえ)から、東京市矢口国民学校(とうきょうしやぐちこくみんがっこう)という名前(なまえ)に変(か)わりました。
この年(とし)に、創立(そうりつ)50周年(しゅうねん)の記念式典(きねんしきてん)が行(おこな)われました。
それから2年後(ねんご)の1943年(昭和18年)、東京市(とうきょうし)が東京都(とうきょうと)になったことで、校名(こうめい)も東京都矢口国民学校(とうきょうとやぐちこくみんがっこう)と変(か)わりました。
国民学校(こくみんがっこう)は、日本国民(にほんこくみん)であることを強(つよ)く意識(いしき)させ、国(くに)のために力(ちから)をつくす人間(にんげん)として、子どもたちを育(そだ)てることを目標(もくひょう)としました。
今(いま)とはちがう当時(とうじ)の学習(がくしゅう)では、体錬科(たいれんか)といって、男子(だんし)は「剣道(けんどう)」、女子(じょし)は「なぎなた」を行(おこな)いました。
強(つよ)い心(こころ)や体(からだ)を鍛(きた)え、国(くに)のために働(はたら)ける力(ちから)をつけようとしたところがひとつあげられます。


戦前の国民学校 なぎなた訓練(他校の写真)

(7) 矢口国民学校(やぐちこくみんがっこう)の先生(せんせい)や子どものようす

矢口国民学校(やぐちこくみんがっこう)では、男(おとこ)の先生(せんせい)は、「国民服(こくみんふく)」を着(き)て、足(あし)には「ゲートル」をまいていました。
男子(だんし)は、カーキ色(いろ)の洋服(ようふく)が多(おお)く、女子(じょし)は、モンペをはいていました。「ぜいたくは敵(てき)だ」が合い言葉(あいことば)となっていた時代(じだい)でした。
今(いま)の安方中学校(やすかたちゅうがっこう)のあるところは、まだ空き地(あきち)だったので、子どもたちが、さつまいもやかぼちゃを植(う)えて育(そだ)てました。
とれたさつまいもやかぼちゃは、先生(せんせい)がふかしたり、すいとんにしたりして、子どもたちに食(た)べさせてくれました。子どもたちに笑顔(えがお)がもどるのも、こんなときくらいでした。


昭和19年 卒業生の集合写真

(8) 学童疎開(がくどうそかい)

1944年(昭和19年)7月に、サイパン島(とう)がアメリカのものになってから、この島(しま)を基地(きち)として、アメリカ軍(ぐん)のB29という戦闘機(せんとうき)が、日本全土(にほんぜんど)にはげしく空襲(くうしゅう)してきました。
B29は、当時(とうじ)の日本(にほん)では考(かんが)えられないほど大(おお)きな戦闘機(せんとうき)で、爆弾(ばくだん)や焼夷弾(しょういだん)を次々(つぎつぎ)落(お)としました。
木造(もくぞう)の家(いえ)が多(おお)い日本(のほん)の町(まち)は、落(お)ちると火(ひ)を出(だ)す焼夷弾(しょういだん)で、焼け野原(やけのはら)になっていきました。
そこで政府(せいふ)は、工場(こうじょう)を地方(ちほう)にうつしたり、子どもたちを疎開(そかい)させたりしました。
矢口国民学校(やぐちこくみんがっこう)でも、3年生(ねんせい)から6年生(ねんせい)までの子どもたちが、お父(とう)さん、お母(かあ)さんと別(わか)れて、先生(せんせい)に連(つ)れられて集団疎開(しゅうだんそかい)しました。
疎開先(そかいさき)で一番(いちばん)困(こま)ったことは、毎日(まいにち)どうやって食(た)べていくかでした。
勉強(べんきょう)どころではありませんでした。
食(た)べるものがないため、子どもたちはみんな、とてもやせていました。
いったん疎開(そかい)はしたけれど、そこも危(あぶ)ないというので、もっと山奥(やまおく)の村(むら)や安全(あんぜん)なところへ、もう一度(いちど)疎開(そかい)するありさまでした。
低学年(ていがくねん)の子どもや、いなかに親類(しんるい)のある子どもは、個人(こじん)で疎開(そかい)した子(こ)もいました。


学童疎開に出発するところ

(9)  矢口国民学校(やぐちこくみんがっこう)の疎開先(そかいさき)

矢口小学校児童の学童疎開先

疎開日(そかいび)
1944年(昭和19年)

疎開先(そかいさき) 再疎開(さいそかい) 学年(がくねん)・児童数(じどうすう)
8月26日 静岡県駿東郡高根村(蓮静寺)

1944年(昭和19年)11月
静岡県島田市(快林寺)

(3年生)24名 (4年生)22名 (6年生)49名
(合計)95名

8月26日

富山県下新川郡魚津町(大泉寺)(安城寺)

1945年(昭和20年)8月
富山県下新川郡山崎村

(5年生)70名
1945年(昭和20年)5月6日  二次疎開合流
(3・4・5・6年生)残りの70名

8月31日 静岡県磐田村二俣町(栄林寺) なし

(3年生)25名 (4年生)20名 (6年生)51名
(合計)96名

9月4日 静岡県熱海市咲見町(一藤旅館)

1945年(昭和20年)5月
秋田県仙北郡高梨村(集会所)

(3年生)38名 (4年生)39名
(合計)77名


学童疎開 学習場面


学童疎開 歯みがき場面

(10)  集団疎開(しゅうだんそかい)された方々(かたがた)のお話(はなし)

【蓮常寺(れんじょうじ)  今(いま)の御殿場市(ごてんばし)にある】
村(むら)の人々(ひとびと)には親切(しんせつ)にされ、風呂(ふろ)に入(い)れてもらったり、お祭(まつ)りによばれてごちそうになったりしました。
けれども、蓮常寺(れんじょうじ)は、たてつけが悪(わる)く寒(さむ)いので、冬(ふゆ)がくる前(まえ)に、快林寺(かいりんじ)に再疎開(さいそかい)しました。

【栄林寺(えいりんじ) 静岡県(しずおかけん)の大井川(おおいがわ)沿(ぞ)いにあった】
さびしくて、汽車(きしゃ)で帰(かえ)ろうとした子(こ)もいました。
シラミが出(で)て、頭(あたま)や体(からだ)につき、それをたいじするのがたいへんでした。
家(いえ)からの便(たよ)りや小包(こづつみ)が、何(なに)よりの楽(たの)しみでした。
食べ物(たべもの)が入(はい)っていると分(わ)けあって、みんなで食(た)べました。

【一藤旅館(いちふじりょかん) 熱海市(あたみし)の「お宮(みや)の松(まつ)」の近(ちか)くにある町(まち)】
温泉(おんせん)に入(はい)れてごきげんでしたが、毎日(まいにち)の食事(しょくじ)は、ふりかけとたくあんでした。
また、燃料(ねんりょう)がないので、子どもたちが、山(やま)おくからたきぎをせおって運(はこ)びました。
そして、翌年(よくねん)の5月には、秋田県(あきたけん)に再疎開(さいそかい)して、「戦争(せんそう)に勝(か)つまでは」と、わがままを言(い)わずに、みんながんばりました。

【大泉寺(だいせんじ) 安城寺(あんじょうじ) 富山県(とやまけん)魚津港(うおづこう)近(ちか)くにある】
軍隊式(ぐんたいしき)の規律(きりつ)のきびしい毎日(まいにち)でした。
朝(あさ)は、乾布(かんぷ)まさつ・マラソン・寺(てら)の掃除(そうじ)などをやりました。
野菜(やさい)が足(た)りないので、「ぜんまい」や「わらび」とりをしました。
夏(なつ)は、水泳(すいえい)や砂浜(すなはま)でのすもう大会。
冬(ふゆ)はスキーや雪遊(ゆきあそ)びなど、楽(たの)しいこともたくさんありました。


学童疎開 砂浜でのすもう大会

(11) 焼(や)け残(のこ)った校舎(こうしゃ)

1945年(昭和20年)4月、矢口小学校での授業(じゅぎょう)はとりやめになりました。
学校には警備中隊(けいびちゅうたい)が置(お)かれ、講堂(こうどう)は物資(ぶっし)を入(い)れる倉庫(そうこ)になりました。

4月15日夜(よる)の大空襲(だいくうしゅう)で、大森(おおもり)や蒲田(かまた)は火(ひ)の海(うみ)となりました。
矢口(やぐち)の町(まち)も、小学校(しょうがっこう)と付近(ふきん)の家(いえ)を一部(いちぶ)残(のこ)して、ほとんど焼(や)けてしまいました。
矢口小学校は、警備隊員(けいびたいいん)の人(ひと)たちの必死(ひっし)の消火活動(しょうかかつどう)で、なんとか焼(や)け残(のこ)りました。
焼(や)け残(のこ)った学校には、けが人(にん)や家(いえ)を焼(や)かれた人(ひと)が大勢(おおぜい)集(あつ)まってきました。

先生(せんせい)たちは、その人々(ひとびと)の世話(せわ)をしたり、子どもたちのようすを調(しら)べてまわったりしました。
たいへんな思(おも)いをして調(しら)べた結果(けっか)、集団疎開(しゅうだんそかい)をしたほうがいいと思(おも)われる子が、まだ残(のこ)っていました。
そこで、先生(せんせい)たちは、さっそく準備(じゅんび)をして、5月6日には、3年生以上(いじょう)の子ども70名(めい)を連(つ)れて、富山県(とやまけん)の魚津(うおづ)に出発(しゅっぱつ)しました。

8月(がつ)に入(はい)り、焼(や)け残(のこ)った校舎(こうしゃ)も目立(めだ)つということで、東側(ひがしがわ)の4教室(きょうしつ)の取(と)りこわしが始(はじ)まりました。
しかし、全部(ぜんぶ)をこわさないうちに、8月15日の終戦(しゅうせん)をむかえました。

戦後(せんご)の矢口小学校(1945年~)

(1)  終戦直後(しゅうせんちょくご)の学校(がっこう)のようす

1945年(昭和20年)8月15日を境(さかい)として、焼(や)け野原(のはら)の矢口にも、少(すこ)しずつバラックが建(た)ち始(はじ)め、人々がもどってきました。
※バラック・・・一時的に建てた、粗末な(木造)家屋

9月はじめには、ふたたび授業(じゅぎょう)が始(はじ)まり、9月30日には、児童(じどう)が170名になりました。
秋田(あきた)や富山(とやま)に集団疎開(しゅうだんそかい)していた児童(じどう)ももどってきて、11月には370名になりました。
校舎(こうしゃ)はひどくいたんでいました。
それでもなんとか使(つか)えたので、戦災(せんさい)でまる焼(や)けになってしまった、蒲田(かまた)小学校・矢口東(やぐちひがし)小学校・道塚(みちづか)小学校・出雲(いずも)小学校、さらには、区役所(くやくしょ)の支所(ししょ)などが、矢口小学校の校舎(こうしゃ)を借(か)りて、授業(じゅぎょう)や仕事(しごと)をしました。

教科書(きょうかしょ)は、しばらくの間(あいだ)、戦前(せんぜん)に使(つか)っていたもので、戦争(せんそう)に勝(か)った連合国(れんごうこく)から、教(おし)えてはいけないとされたところを墨(すみ)でぬって消(け)した「墨(すみ)ぬり教科書(きょうかしょ)」を使(つか)いました。
新(あたら)しくできた教科書(きょうかしょ)は、ざら紙(がみ)のうすいものに印刷(いんさつ)されていました。
ノートや消(け)しゴムをはじめ、文房具(ぶんぼうぐ)が手(て)に入(はい)らず、とても不自由(ふじゆう)な中(なか)での勉強(べんきょう)でした。

食べ物(たべもの)も少(すく)なく、米(こめ)が少(すこ)ししか入(はい)っていない、おかゆやぞうすいを食(た)べるしかありませんでした。
弁用(べんとう)を持(も)ってこられないこともあり、勉強(べんきょう)は、午前(ごぜん)と午後(ごご)に分(わ)かれての二部授業(にぶじゅぎょう)をしていました。

教室(きょうしつ)の数(かず)や先生(せんせい)の人数(にんずう)が足(た)りないために、ひとつのクラスの人数(にんずう)が60人(にん)以上(いじょう)になることもありました。
校舎(こうしゃ)が焼(や)けてなくなってしまった他(ほか)の学校(がっこう)では、校庭(こうてい)で授業(じゅぎょう)をする「青空教室(あおぞらきょうしつ)」を行(おこな)うこともありました。


墨ぬり教科書

(2)  新(あたら)しい教育(きょういく)へ

1946年(昭和21年)に、新(あたら)しい日本国憲法(にほんこくけんぽう)ができ、「平和(へいわ)で、人間(にんげん)を大切(たいせつ)にし、戦争(せんそう)をしない」という国(くに)のきまりが定(さだ)められました。
1947年(昭和22年)には、教育基本法(きょういくきほんほう)が作(つく)られ、日本(にほん)の義務教育(ぎむきょういく)は、小学校6年間、中学校3年間と決(き)められました。
1947年(昭和22年)の3月には、それまでの大森区(おおもりく)と蒲田区(かまたく)がひとつになって、大田区(おおたく)になりました。
矢口小学校は、4月1日から、東京都大田区立矢口小学校(とうきょうとおおたくりつやぐちしょうがっこう)という校名(こうめい)になりました。


新しい憲法のはなし(図)

(3) 多摩川(たまがわ)小学校の新設(しんせつ)

戦後(せんご)、矢口小学校の児童数(じどうすう)が1年間(ねんかん)に200名もふえた年(とし)がありました。
そのため、たびたび教室(きょうしつ)を増(ふ)やしたり、古(ふる)い校舎(こうしゃ)を直(なお)したりしなくてはいけませんでした。
そこで、1956年(昭和31年)に、新(あたら)しく多摩川(たまがわ)小学校ができました。
矢口小学校からも、675名の児童(じどう)と、11名の先生(せんせい)が多摩川小学校に移(うつ)りました。
その後(ご)は、矢口小学校の児童数(じどうすう)のはげしい増(ふ)え方(かた)はみられなくなりました。


1943年から1980年までの児童数のうつりかわり

(4) 校歌(こうか)の誕生(たんじょう)

矢口小学校に校歌(こうか)ができたのは、1955年(昭和30年)6月1日の創立(そうりつ)64周年(しゅうねん)のときでした。
作詞(さくし)は藤浦 洸(ふじうら こう)氏、作曲は佐々木 すぐる(ささき すぐる)氏によるもので、今(いま)でも歌(うた)われているすばらしい校歌(こうか)です。
この日、盛大(せいだい)に校歌発表会(こうかはっぴょうかい)が行(おこな)われました。

(5)  プールができる

1955年(昭和30年)ころになると、生活排水(せいかつはいすい)や工業廃水(こうぎょうはいすい)が増(ふ)えて多摩川(たまがわ)の水(みず)が汚(よご)れはじめ、水泳(すいえい)をすることが禁止(きんし)されていました。
矢口小学校の児童(じどう)は、多摩川園(たまがわえん)プールや道塚(みちづか)小学校のプールを借(か)りて水泳(すいえい)をしていました。
しかし、それでは不便(ふべん)なので、矢口小学校にもプールがほしいという声(こえ)が、たくさんあがりました。
そこで、1958年(昭和33年)5月のPTA総会(そうかい)で話(はな)し合(あ)われ、プールがつくられることになりました。
児童(じどう)の家庭(かてい)のほか、町会(ちょうかい)を通(つう)じて、町(まち)の人に募金(ぼきん)をお願(ねが)いしたり、工事(こうじ)早くしてもらうために、農協(のうきょう)からお金(かね)を借(か)りる相談(そうだん)をしたりしました。
当時(とうじ)のお金(おかね)で200万円(今のお金で5~6000万円)もの費用(ひよう)がかかる工事(こうじ)でしたが、そのほとんどのお金(かね)は、1年間(ねんかん)で集(あつ)まりました。
PTAや町会(ちょうかい)など、地域(ちいき)の人(ひと)たちの力(ちから)によって、1959年(昭和34年)8月8日には完成(かんせい)したプールで、プール開(ひら)きをすることができました。
子どもたちの喜(よろこ)びは大変(たいへん)なものでした。


1959年(昭和34年)のプール開き 大田区長がテープカット

(6) 校舎(こうしゃ)のうつりかわり

今(いま)の校舎(こうしゃ)になる、ひとつ前(まえ)の校舎(こうしゃ)の歴史(れきし)です。

1958年(昭和33年)、古(ふる)い木造校舎(もくぞうこうしゃ)を取(と)りこわし、第1期(だいいっき)の鉄筋(てっきん)3階建て(3がいだて)校舎(こうしゃ)ができました。
その後(ご)、1960年(昭和35年)までに第2期(だいにき)、1963年(昭和38年)までに第3期(だいさんき)、1971年(昭和46年)までに第4期(だいよんき)の工事(こうじ)が続(つづ)けられて、すべてが鉄筋校舎(てっきんこうしゃ)に変(か)わっていきました。
1968年(昭和43年)には、校舎(こうしゃ)の西側(にしがわ)、今の学童保育(がくどうほいく)がある建物(たてもの)ができ、1969年(昭和44年)から矢口幼稚園(やぐちようちえん)が開園(かいえん)しました。
1970年(昭和45年)には、現在(げんざい)の1年生(ねんせい)教室(きょうしつ)のあたりにあった木造講堂(もくぞうこうどう)が、体育館(たいいくかん)に作(つく)りかえられました。
その後(ご)、1973年(昭和48年)に第5期(だいごき)の鉄筋校舎(てっきんこうしゃ)ができ、1978年(昭和53年)には図書室(としょしつ)、家庭科室(かていかしつ)、視聴覚室(しちょうかくしつ)ができました。
校舎(こうしゃ)の工事(こうじ)をしているときには、教室(きょうしつ)が足(た)りなくて、二部授業(にぶじゅぎょう)をしたり、校庭(こうてい)がせまくて運動(うんどう)や遊(あそ)びを思(おも)うようにできなかったりして、子どもたちは不自由(ふじゆう)な思(おも)いをしました。
1980年(昭和55年)ころには、第1期工事(だいいっきこうじ)から22年間(ねんかん)もたち、外壁(がいへき)が古(ふる)くなってしまったため、壁(かべ)を塗(ぬ)りかえる工事(こうじ)が行(おこな)われ、真新(まあたら)しい感(かん)じの校舎(こうしゃ)に生(う)まれ変(か)わりました。

1981年(昭和56年)には、この生(う)まれ変(か)わった校舎(こうしゃ)で、創立(そうりつ)90周年(しゅうねん)の様々(さまざま)な取組(とりくみ)が行(おこな)われました。


鉄筋校舎のうつりかわり

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矢口小学校

住所:〒146-0095 大田区多摩川一丁目18番22号
電話:03-3759-9618
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