矢口小学校の歴史(開校130周年に向けて)
更新日:2020年12月8日
臨時休校中(りんじきゅうこうちゅう)の学習(がくしゅう)のひとつとして、このページに矢口小学校の歴史(れきし)を連載(れんさい)していきます。
学習(がくしゅう)のまとめとして、新聞形式(しんぶんけいしき)や、自学(じがく)ノートなど、作(つく)ってみませんか。
まとめたら、校長先生(こうちょうせんせい)や担任(たんにん)の先生(せんせい)に、ぜひ見(み)せてくださいね。
校長先生(こうちょうせんせい)からは、がんばった記念(きねん)のシールがもらえます。
明治時代の矢口小学校 目次(もくじ)
- (1) 薫泉(くんせん)小学校のはじまり
- (2) 明林(めいりん)小学校が分かれる
- (3)矢口小学校のたんじょうのころ
- (4)最初(さいしょ)の校舎(こうしゃ)
- (5)校舎(こうしゃ)の増改築(ぞうかいちく)
- (6)校舎(こうしゃ)の移転(いてん)
- (7) 明治時代(めいじじだい)の矢口小学校の子どもたちのようす・1
- (8)明治時代(めいじじだい)の矢口小学校の子どもたちのようす・2
大正時代の矢口小学校 目次(もくじ)
- (1)台風(たいふう)のため校舎(こうしゃ)がたおれる
- (2)広(ひろ)い敷地(しきち)に二階建て(にかいだて)の校舎(こうしゃ)
- (3)関東大震災(かんとうだいしんさい)のころ
- (4)ますます足りなくなる教室
- (5)大正時代(たいしょうじだい)の子どもたちのようす・1
- (6)大正時代(たいしょうじだい)の子どもたちのようす・2
- (7)大正時代(たいしょうじだい)の子どもたちのようす・3
- (8)校章(こうしょう)が決(き)まった1917年(大正6年)
昭和時代の矢口小学校 目次(もくじ)
- (1)昭和(しょうわ)のはじめころ
- (2)昭和(しょうわ)初(はじ)めの矢口の教育(きょういく)
- (3)昭和時代(しょうわじだい)はじめの子どもたちのようす
- (4)学校生活(がっこうせいかつ)のようす
- (5)太平洋戦争(たいへいようせんそう)のころのくらし
- (6)矢口国民学校(やぐちこくみんがっこう)
- (7)矢口国民学校(やぐちこくみんがっこう)の先生(せんせい)や子どものようす
- (8)学童疎開(がくどうそかい)
- (9)矢口国民学校(やぐちこくみんがっこう)の疎開先(そかいさき)
- (10)集団疎開(しゅうだんそかい)された方々(かたがた)のお話(はなし)
- (11)焼(や)け残(のこ)った校舎(こうしゃ)
戦後(せんご)の矢口小学校 目次(もくじ)
- (1)終戦直後(しゅうせんちょくご)の学校(がっこう)のようす
- (2)新(あたら)しい教育(きょういく)へ
- (3)多摩川(たまがわ)小学校の新設(しんせつ)
- (4)校歌(こうか)の誕生(たんじょう)
- (5)プールができる
- (6)校舎(こうしゃ)のうつりかわり
明治時代(1868年 明治元年から)の矢口小学校
(1) 薫泉(くんせん)小学校のはじまり
日本が江戸時代(えどじだい)から明治時代(めいじじだい)に変わったのは、1868年(明治元年)でした。
それから5年たった1872年(明治5年)に、学制(がくせい)という国のきまりができました。
この学制(がくせい)によって、小学校をつくって、子どもたちに教育(きょういく)を受(う)けさせることが、「国民の義務(こくみんのぎむ)」となりました。
「村(むら)には、学校にいかない家(いえ)がないように、家には学校にいかない人がいないように。」と決(き)められました。
1878年(明治11年)に、矢口のまわりの村々(矢口村・今泉村・安方村・古市場村・原村・下丸子村・小林村・蓮沼村)の人たちがお金を出しあい、、まずはじめに薫泉小学校(くんせんしょうがっこう)ができました。
学校は、今泉村(いまいずみむら)の原さんの家が大きな農家(のうか)だったので、その家をかりて学校にしました。
教室(きょうしつ)は、今の教室)きょうしつ)の半分くらいの大きさの部屋(へや)が、3部屋(へや)あっただけの小さなものでした。
ここで初(はじ)めて勉強(べんきょう)した子どもたちは、全部(ぜんぶ)で72名。
ほとんどは男子(だんし)で、女子(じょし)は10名ほどであったそうです。
年齢(ねんれい)は、7才から15才までの子どもたちが通(かよ)っていたそうです。
薫泉小学校 初期平面図
(2) 明林(めいりん)小学校が分かれる
1880年(明治13年)に、薫泉(くんせん)小学校から学校が分(わ)かれた薫泉分校(くんせんぶんこう)として、少(すこ)しはなれた地(ち)いきに「明林小学校(めいりんしょうがっこう)」という学校がつくられました。
場所(ばしょ)は、小林村(こばやしむら)の金剛院本堂(こんごういんほんどう)でした。今の新蒲田(しんかまた)2丁目3番地です。
明林小学校は、年に3回、定期試験(ていきしけん)があり、この試験(しけん)に合格(ごうかく)すると、一級上(いっきゅううえ)の学年に進(すす)めました。明林小学校ができたときの子どもの数(かず)は88名でした。
校舎(こうしゃ)として使(つか)っていた金剛院(こんごういん)は、1881年(明治14年)に火事(かじ)になりました。
そのため、4教室(きょうしつ)ある草(くさ)ぶきの学校を新築(しんちく)しました。このため、まわりの学校とくらべても、すばらしい校舎(こうしゃ)となりました。
金剛院本堂
(3) 矢口小学校のたんじょうのころ
1890年(明治23年)5月に、矢口村(やぐちむら)の近(ちか)くにあった九つの村がいっしょになって、大きな矢口村となりました。
そして、矢口村としてひとつにまとまるために、薫泉(くんせん)・明林(めいりん)の二つの公立小学校(こうりつしょうがっこう)をいっしょにして、矢口小学校をつくることになりました。
1891年(明治24年)4月1日、校舎(こうしゃ)が完成(かんせい)し、6月1日から授業(じゅぎょう)が始(はじ)まりました。11月21日には開校式(かいこうしき)が行われました。
初代(しょだい)と、四代目の校長である、宇田川峯三郎(うだがわみねさぶろう)先生は、1891年(明治24年)から1901年(明治34年)、そして1904年(明治37年)から1908年(明治41年)矢口小学校の校長として勤(つと)められ、校内(こうない)だけでなく、広(ひろ)く村人(むらびと)からも信頼(しんらい)されていました。
宇田川先生は1922年(大正10年)、62才でなくなられました。お墓(はか)は現在(げんざい)の延命寺(えんめいじ)にあります。
学校の授業(じゅぎょう)は、宇田川(うだがわ)先生、他3名の先生によって行(おこな)われました。
教科(きょうか)は、修身(しゅうしん)、読本(とくほん)、作文(さくぶん)、習字(しゅうじ)、算術(さんじゅつ)、体操(たいそう)の6教科(きょうか)でした。
初代校長 宇田川峯三郎 先生
(4) 最初(さいしょ)の校舎(こうしゃ)
1891年(明治24年)の矢口小学校の最初(さいしょ)の校地(こうち)は、安方(やすかた)323番地(ばんち)で、現在(げんざい)の矢口小学校の東側(ひがしがわ)にあたり、今の学校の場所(ばしょ)と、いくらもはなれていないところでした。
そこに、明林小学校(めいりんしょうがっこう)の校舎(こうしゃ)を移(うつ)して、5教室(きょうしつ)に増改築(ぞうかいちく)しました。
教室(きょうしつ)といっても、今(いま)とはかなりちがって、ふつうの家(いえ)と同(おな)じような、縁側(えんがわ)の廊下(ろうか)がありました。
そして、窓(まど)はガラス戸(ど)ではなく、紙(かみ)の障子(しょうじ)と雨戸(あまど)でした。
学校のまわりは竹垣(たけがき)でかもまれており、すぐ近(ちか)くから、畑(はたけ)がつづいていました。
つまり、学校のまわりはほとんど、今の矢口自然農園(やぐちしぜんのうえん)のような景色(けしき)だったようです。
創立当初の校舎想像図
(5) 校舎(こうしゃ)の増改築(ぞうかいちく)
1891年(明治24年)のころ120名くらいだった児童数(じどうすう)は、1897年(明治30年)ころから170名をこえ、1904年(明治37年)ころには300名ちかくにふえました。
それにともなって、校舎(こうしゃ)を広(ひろ)げなくてはならなくなりました。
1901年(明治34年)6月には、補習科(ほしゅうか)という授業(じゅぎょう)クラスをやめて、二年制(にねんせい)の矢口高等小学校(こうとうしょうがっこう)が、十寄神社(じゅっきじんじゃ)(現在の矢口2丁目17番地)の南側(みなみがわ)につくられました。
しかし、経費(けいひ)がかかるため、これをやめて、矢口小学校の中に高等科(こうとうか)がおかれました。
増改築(ぞうかいちく)が間(ま)に合(あ)わないときは、半日(はんにち)学校、つまり、前半(ぜんはん)・後半(こうはん)の二部授業(にぶじゅぎょう)を行(おこない)いました。
荏原郡 矢口尋常・高等小學校
(6) 校舎(こうしゃ)の移転(いてん)
1907年(明治40年)3月に、学校の場所(ばしょ)を小林町四番地(こばやしちょうよんばんち)に移(うつ)しました。
ここは、現在(げんざい)の矢口渡駅東(やぐちのわたしえきひがし)ふみきりの南側(みなみがわ)になります。
この校舎(こうしゃ)は、全部(ぜんぶ)が瓦(かわら)ぶき、ガラス窓(まど)つくりで、このころとしては、とても立派(りっぱ)なものでした。
この校舎(こうしゃ)ができても、すぐに全校生(ぜんこうせい)が学(まな)ぶためには、教室(きょうしつ)が足(た)りなくなってしまい、元(もと)の高等小学校(こうとうしょうがっこう)を分教場(ぶんきょうじょう)として、低学年(ていがくねん)が使(つか)いました。
1908年(明治41年)から、それまで四年制(よねんせい)だった尋常科(じんじょうか)が、六年制(ろくねんせい)に変(か)わりました。
その時(とき)に書(か)かれた「矢口小学校」の校名板(こうめいばん)は、今でもそのまま学校の中央玄関(ちゅうおうげんかん)のかべに掲示(けいじ)してあります。
※小学校制度
1872年(明治5年)から下等小学(4年間)・上等小学(4年間)
1879年(明治12年)から初等科(3年間)・中等科(3年間)・高等科(3年間)
1886年(明治19年)から尋常小学校(4年間)・高等小学校(4年間)・・・尋常小学校が義務教育
1907年(明治40年)から尋常小学校(6年間)・高等小学校(2年間)・・・尋常小学校が義務教育
正面玄関の校名板
(7) 明治時代(めいじじだい)の矢口小学校の子どもたちのようす・1
当時(とうじ)は、どの家(いえ)も農作業(のうざぎょう)がいそがしくて、子どもたちも、いっしょうけんめいに手伝(てつだ)わなくてはなりませんでした。
田植(たう)えの時期(じき)や稲刈(いねか)りの時(とき)には、学校(がっこう)も15~20日くらいは休(やす)みになりました。
なかには、家(いえ)の手伝(てつだ)いのために、小学校入学(しょうがっこうにゅうがく)を1,2年おくらせる子や、途中(とちゅう)で学校をやめてしまう子もいました。
通学(つうがく)の服(ふく)そうは着物(きもの)で、わらぞうりや竹(たけ)の皮(かわ)のぞうりをはいていました。
今のようにくつをはいてくる子はいませんでした。雨(あめ)の日(ひ)には、「みのがさ」や「ばんがさ」をさしました。
ランドセルはなくて、ふろしきに弁当(べんとう)・半紙(はんし)・本(ほん)・石版(せきばん)・石筆(せきひつ)・筆(ふで)などを包(つつ)んで持(も)ってきました。
授業(じゅぎょう)は、修身(しゅうしん)が一番大切(いちばんたいせつ)に考(かんが)えられていて、礼儀作法(れいぎさほう)がきびしく教(おし)えられました。
読本(とくほん・・・本をよむこと)でも、本は目(め)の高(たか)さより上(うえ)に、おしいただいてから読(よ)んでいました。
習字(しゅうじ)では、半紙(はんし)を15~20枚(まい)とじこんだ草紙(そうし・・・ノートのようにとじたもの)に、筆(ふで)で何回(なんかい)も書(か)きました。
半紙(はんし)が真っ黒(まっくろ)になっても、それをかわかして、その上(うえ)からまた書(か)いて練習(れんしゅう)しました。紙(かみ)をとても大切(たいせつ)に使(つか)っていたのです。
ぞうり
(8) 明治時代(めいじじだい)の矢口小学校の子どもたちのようす・2
算術(さんじゅつ)の勉強(べんきょう)は、石版(せきばん)に石筆(せきひつ)を使(つか)って書(か)きながら計算(けいさん)をしました。
終(お)わると小(ちい)さな黒板消し(こくばんけし)で消して、くりかえし使(つか)いました。
ノートや鉛筆(えんぴつ)は値段(ねだん)が高(たか)くて、ほとんど使(つか)えませんでした。
体操(たいそう)は、整列(せいれつ)の仕方(しかた)、かけっこ、幅(はば)とびなどを行(おこな)いました。
たくさんの学校が集(あつ)まって行(おこな)う連合運動会(れんごううんどうかい)は、世田谷(せたがや)の九品仏(くほんぶつ)で行(おこな)われました。
競技(きょうぎ)は、つなひきとかけっこぐらいなものでした。
子どもたちは、竹(たけ)の皮(かわ)のぞうりを買(か)ってもらって、弁当(べんとう)をふろしきに包(つつ)んで出(で)かけるのが、とても楽(たの)しみだったようです。
このころの子どもたちの遊(あそ)びは、こままわし、たこあげ、近(ちか)くを流(なが)れていた六郷用水(ろくごうようすい)での魚(さかな)とり、水泳(すいえい)、せみとり、とんぼとりなどでした。
女子(じょし)はお手玉(てだま)でよく遊(あそ)びました。
矢口小学校は今でも自然(しぜん)にめぐまれていますが、このころは、今以上(いまいじょう)に多(おお)くの自然(しぜん)にめぐまれ、手近(てぢか)なものを使(つか)って、子どもたちで工夫(くふう)して遊(あそ)ぶことが多(おお)かったのです。
石板と石筆
上の3枚の写真は、今の矢口小学校の学区域内にあります。
どこにあるか知っていますか?
【六郷用水物語 測量・杭打ち たて長の碑に書かれている文】
1597年(慶長2年)2月4日から始まった堀筋の測量・杭打ちは、下流地域から六郷用水と二ヶ領用水とが交互に実施され、その後2年を要して完了しています。
測量は夜間に提灯をともして木に登り、その明かりを使って高低差や方位を図ったといわれています。
大正時代(たいしょうじだい 1912年 大正元年から)の矢口小学校
(1) 台風(たいふう)のため校舎(こうしゃ)がたおれる
大正時代(たいしょうじだい)になっても、明治からひきつづき、本校(ほんこう)と分教場(ぶんきょうじょう)に分(わ)かれて、300人近(ちか)い児童(じどう)が、6人の先生(男4名、女2名)の指導(しどう)を受(う)けていました。
1917年(大正6年)9月30日、真夜中(まよなか)から台風(たいふう)の被害(ひがい)で、本校(ほんこう)の東側(ひがしがわ)半分(はんぶん)が倒(たお)れてしまいました。
こわれた校舎(こうしゃ)を大修理(だいしゅうり)したり、つっかえ棒(ぼう)をしたり、分教場(ぶんきょうじょう)で二部授業(にぶじゅぎょう)や三部授業(さんぶじゅぎょう)をして、何(なん)とか学習(がくしゅう)を進(すす)めました。
【1917年(大正6年)の台風の様子について】
東京では10月1日午前3時に最大風速39.6m/秒を観測、銚子で50.8m/秒を観測した。
それにより10月1日夜半、東京湾では十五夜の大潮と重なったこともあり、観測史上最大の前後2回にわたる高潮を記録し、その高さは、築地の霊岸島付近で東京湾平均海面+3.1mに達した。
築地沿岸には大小の船舶が打ち上げられ、月島から深川洲崎及び荒川と江戸川に挟まれた葛西地区では、ほとんどの家が床上浸水となり、中には軒下まで浸水した家も少なくなかった。
この高潮と暴雨風により東京市内だけで215平方kmが浸水、東京市を含む府下(現・都下)の被害は504人死亡、58人行方不明、961人負傷、家屋全潰4019戸、同流失1087戸、同床上浸水13万1334戸(内務省調べ)、道路決壊延べ1.66km、堤防決壊延べ7.7km、橋梁流失89か所の被害となった。
(引用参照「防災情報新聞」無料版 http://www.bosaijoho.jp/)
(2) 広(ひろ)い敷地(しきち)に二階建て(にかいだて)の校舎(こうしゃ)
大正時代(たいしょうじだい)のころは、学校(がっこう)はその村(むら)が建(た)てなければなりませんでした。
そのため、建て直し(たてなおし)については、いろいろな問題(もんだい)がありました。
まず、新(あたら)しい校舎(こうしゃ)をどこに建(た)てるかということで、今(いま)の場所(ばしょ)に決(き)まるまでに3年以上(ねんいじょう)の年月かかかりました。
1920年(大正9年)12月、地主(じぬし)さんの好意(こうい)により、3,300坪(つぼ)の校地(こうち)がやっと決(き)まり、工事(こうじ)にとりかかりました。
しかし、低(ひく)い水田(すいでん)だった場所(ばしょ)のため、土盛り(つちもり)をしなければならず、敷地(しきち)の一部(いちぶ)を約(やく)300坪(つぼ)ばかり掘(ほ)って間(ま)に合(あ)わせました。
その堀(ほ)った跡(あり)が大(おお)きな池(いけ)になってしまい、ボールなどがよくとびこんで困(こま)ったそうです。
この池(いけ)は、多摩川(たまがわ)の堤防(ていぼう)を作(つく)る時(とき)に合(あ)わせて埋(う)めたので、今(いま)はありません。
校舎(こうしゃ)は2階建て(にかいだて)にしたので、予定(よてい)した金額(きんがく)では足(た)りなくなってしまいました。
そこで、村長(そんちょう)や村会議員(そんかいぎいん)をはじめ、村(むら)の主(ぬし)だった人々(ひとびと)は、自分(じぶん)の仕事(しごと)を投(な)げ打(う)って、寄付金(きふきん)集(あつ)めに走(はし)り回(まわ)りました。
その結果(けっか)、55,573円もの寄付金(きふきん)が集(あつ)まりました。
このように、校舎(こうしゃ)を建(た)てるための、村民(そんみん)の協力(きょうりょく)も大変(たいへん)なものでした。
こうして、1922年(大正11年)4月、当時(とうじ)としては、かなり立派(りっぱ)な2階建て(にかいだて)、ストレート瓦(かわら)ぶき、ガラス窓(まど)の荏原郡(えばらぐん)随一(ずいいち)の学校(がっこう)が誕生(たんじょう)したのです。
※大正9年ころの55,573円は、今のお金にすると、約3千万円くらいになります。
1922年(大正11年)校舎平面図
(3) 関東大震災(かんとうだいしんさい)のころ
1923年(大正12年)9月1日、2学期(がっき)の始業式(しぎょうしき)の日のことです。
午前11時58分ころ、関東地方(かんとうちほう)に大きな地震(じしん)が起(お)きました。
家(いえ)の軒先(のきさき)が地面(じめん)につくかと思(おも)うほどの大きなゆれがありました。
それでも矢口小学校の校舎(こうしゃ)は倒(たお)れませんでした。
関東大震災(かんとうだいしんさい)のあとは、矢口村(やぐちむら)の人口(じんこう)が目立(めだ)って増(ふ)えていきました。
それは、東京(とうきょう)の中央部(ちゅうおうぶ)で地震(じしん)の被害(ひがい)を受(う)けた人々(ひとびと)が、郊外(こうがい)に移(うつ)ってきたことや、目蒲線(めかません)が全線開通(ぜんせんかいつう)して、交通(こうつう)の便(べん)がよくなったことが主(おも)な原因(げんいん)でした。
そのため、1925年(大正14年)ころには、児童数(じどうすう)も大変(たいへん)増(ふ)えてしまいました。
そこで、応急(おうきゅう)の対策(たいさく)として、旧校舎(きゅうこうしゃ)を改築(かいちく)して2教室の仮教室(かりきょうしつ)にし、また、本校(ほんこう)敷地内(しきちない)にはバラック建(た)ての校舎(こうしゃ)を建(た)て、3教室を作(つく)りました。
※目蒲線・・・このころは、目黒駅から蒲田駅まで東京急行電鉄が通っており、目蒲線といった。関東大震災直後の1923年(大正12年)11月1日に開通した。2000年(平成12年)8月6日に目黒線と多摩川線に分かれて、目蒲線という名前はなくなった。
昔の矢口渡駅
(4) ますます足(た)りなくなる教室(きょうしつ)
1925年(大正14年)に仮校舎(かりこうしゃ)を増設(ぞうせつ)して1年もたたないうちに、さらに児童数(じどうすう)が増(ふ)えたため、本校舎(ほんこうしゃ)の西側(にしがわ)に6教室(きょうしつ)を建(た)てることになりました。
これが第1期増築(だいいっきぞうちく)です。
毎年(まいねん)の小学校の増築(ぞうちく)で、矢口村(やぐちむら)は経済(けいざい)、つまりお金(かね)のやりくりに大変(たいへん)な苦労(くろう)をしました。
この年(とし)、矢口小学校だけでは足(た)りなくなり、矢口東(やぐちひがし)小学校が建(た)てられることが決(き)まりました。
第1期増築(だいいっきぞうちく)の校舎(こうしゃ)が完成(かんせい)した1926年(大正15年)10月31日には、児童数(じどうすう)が852名となりました。
このころの矢口村(やぐちむら)全体(ぜんたい)の家(いえ)の戸数(こすう)は2290戸(下丸子232戸をふくむ)で、人口(じんこう)は8769人でした。
大正の初(はじ)めころの戸数(こすう)が488戸、人口(じんこう)3614人でしたから、大正時代(たいしょうじだい)のたった15年間(ねんかん)で急(きゅう)に発展(はってん)したことがわかります。
大正12年の矢口周辺地図
(5) 大正時代(たいしょうじだい)の子どもたちのようす・1
子どもたちが学校(がっこう)へ来(く)る服装(ふくそう)は、袴(はかま)をはいていた女子(じょし)が2人くらいいただけで、ほとんどの子どもは着物(きもの)に帯(おび)でした。なかには黒(くろ)いそでのある前(まえ)かけをしている子もいました。
男(おとこ)の先生(せんせい)はつめえりの洋服(ようふく)でした。
腰(こし)に長(なが)い手(て)ぬぐいと煙管(きせる)をぶらさげ、下駄(げた)をはいた先生(せんせい)も中(なか)にはいたそうです。
親(おや)は、勉強(べんきょう)よりも、家(いえ)の仕事(しごと)を第一(だいいち)に考(かんが)え、忙(いそが)しいときはすぐ学校(がっこう)を休(やす)ませました。
小(ちい)さい妹(いもうと)や弟(おとうと)をつれて学校(がっこう)に来(く)る子もいました。
悪(わる)いことをすると、先生(せんせい)にバケツを持(も)って立(た)たされることもありました。
※『煙管(きせる)』とは、タバコを吸(す)うためのパイプのこと
大正時代の集合写真
(6) 大正時代(たいしょうじだい)の子どもたちのようす・2
当時(とうじ)の教科書(きょうかしょ)には、修身(しゅうしん)・読本(とくほん)・書き方(かきかた)・算術(さんじゅつ)・日本歴史(にほんれきし)・地理(ちり)・絵画(かいが)がありました。
遠足(えんそく)では、1年生は池上本門寺(いけがみほんもんじ)、2年生は川崎大師(かわさきだいし)まで歩(ある)いて行(い)きました。
6年生は乗り物(のりもの)に乗(の)って、箱根(はこね)へ行(い)きましたが、年(とし)によっては行(い)かないこともありました。
運動会(うんどうかい)は、今(いま)のように校庭(こうてい)で行(おこな)いました。
地域(ちいき)の青年団(せいねんだん)と合同(ごうどう)のことが多(おお)かったようです。
綱引(つなひ)きは、校庭(こうてい)の片方(かたほう)が高(たか)くなっていたため、勝(か)つ方(ほう)が決(き)まってしまうため、どちら側(がわ)で引っ張る(ひっぱる)かで、いつもけんかしていたそうです。
学芸会(がくげいかい)は、みんな楽(たの)しみにしていて、いっしょうけんめい練習(れんしゅう)しました。
2教室(きょうしつ)をぶちぬいた会場(かいじょう)をつくり、村長(そんちょう)、村会議員(そんかいぎいん)、駐在(ちゅうざい)さん、そのほか大(おお)ぜいの人(ひと)が弁当持ち(べんとうもち)で見(み)にきました。
このころの池上本門寺
(7) 大正時代(たいしょうじだい)の子どもたちのようす・3
学校(がっこう)での遊(あそ)びは、騎馬戦(きばせん)・ジャンケンとび・石(いし)けり・なわとび・くちく水雷(すいらい)・なんこなんこ・お手玉(てだま)・紙(かみ)ふうせん・おはじきなどでした。
おもちゃがなかったので、穴(あな)あき銭(せん)でコマを作(つく)ったり、津花(つばな)を束(たば)にして遊(あそ)びました。
家(いえ)では子守(こも)りや手伝(てつだ)いで、ほとんど遊(あそ)ぶことはありませんでした。
夏(なつ)は馬(うま)のえさにする草刈(くさか)りをして、その草(くさ)を売(う)りました。
麦(むぎ)わらで、つと編(あ)みもしました。六郷用水(ろくごうようすい)はきれいで、胸(むね)の所(ところ)まで水(みず)があり、多摩川(たまがわ)もきれいで泳(およ)げました。
新田神社(にったじんじゃ)の裏(うら)は沼地(ぬまち)になっていて、それをはさんで矢口の子どもと下丸子(しもまるこ)の子どもが、石(いし)を投(な)げ合(あ)い、よくけんかをしていたそうです。
※『くちく水雷(すいらい)』とは、軍艦(ぐんかん)の特性(とくちょう)をじゃんけんのような三(さん)すくみで応用(おうよう)した、鬼(おに)ごっこと戦争(せんそう)ごっこをあわせた屋外遊び(おくがいあそび)の一種(いっしゅ)。
第二次世界大戦前(だいにじせかいたいせんまえ)から昭和40年代に入(はい)ったころまで男子(だんし)の間(あいだ)でさかんに遊(あそ)ばれた。
※『なんこなんこ』とは、みんなに同(おな)じ数(「かず」だけの豆(まめ)を用意(ようい)する。
豆(まめ)がなければドングリとかでもよい。
「なんこなんこ」と言(い)いながら人(ひと)に見(み)えないように後ろ手(うしろで)でいくつかにぎる。
全員(ぜんいん)で合(あ)わせて何個(なんこ)握(にぎ)っているのかを予想(よそう)して、順番(じゅんばん)に数(かず)を言(い)う。
「いっせーの」で各自(かくじ)握(にぎ)った手(て)を出(だ)して開(ひら)く。
数(かず)を当(あ)てた人(ひと)が、その時(とき)の豆(まめ)を全部(ぜんぶ)もらえる遊(あそ)び。
※『つと編(あ)み』とは、ビールびんが割(わ)れないようにかぶせるため、「つと」という納豆(なっとう)を包(つつ)むような筒(つつ)を、わらで編(あ)むこと。
(8) 校章(こうしょう)が決(き)まった1917年(大正6年)
制定年月日(せいていねんがっぴ) 1917年(大正6年)6月1日
考案者(こうあんしゃ) 第8代校長 三浦 茂三郎(みうら しげさぶろう)先生
・矢車(やぐるま)が矢口(やぐち)の「矢(や)」を、中央(ちゅうおう)の円(えん)は「口(くち)」を表(あらわ)している。その口(くち)の中(なか)に校名(こうめい)の矢口(やぐち)の字(じ)を入(い)れた。
・東京府(とうきょうふ)矢口小学校の東(とう)と矢(や)を図案化(ずあんか)して入(い)れた。
・矢(や)が健全(けんぜん)な身体(からだ)、ペンが豊(ゆた)かな知性(ちせい)を象徴(しょうちょう)し、心身両面(しんしんりょうめん)の向上(こうじょう)を願(ねが)っている。
校章
校章の意味
昭和時代(しょうわじだい 1926年 昭和元年から)の矢口小学校
(1) 昭和(しょうわ)のはじめころ
1926年(大正15年)2月15日、大正天皇(たいしょうてんのう)が亡(な)くなられ、そのあとは昭和時代(しょうわじだい)となりました。
世(よ)の中(なか)は大変(たいへん)に不景気(ふいけいき)になっていましたが、人口(じんこう)は増(ふ)え続(つづ)けていました。
矢口小学校にも入学(にゅうがく)する児童(じどう)が多(おお)く、1926年(大正15年)に教室(きょうしつ)を増築(ぞうちく)したばかりでしたが、すぐにぎゅうぎゅうづめになってしまいました。
そのため、1927年(昭和2年)に第二京浜国道(だいにけいひんこくどう)のそばに、8教室(きょうしつ)をつくりました。
その教室(きょうしつ)は、1963年(昭和38年)まで使い、取(と)りこわされました。
8教室(きょうしつ)をつくったあとも、児童(じどう)は増(ふ)え続(つづ)けました。
1927年(昭和2年)に矢口東小学校(やぐちひがししょうがっこう)ができ、矢口小学校から170名ぐらいの児童(じどう)が移(うつ)りました。
それでもまだまだ児童数(じどうすう)が多(おお)かったため、1931年(昭和6年)には、矢口西小学校(やぐちにししょうがっこう)へ学区域(がっくいき)を分(わ)けるほどでした。
1932年(昭和7年)、東京府(とうきょうふ)から東京市(とうきょうし)になり、35区ができました。
そこで、校名も東京市立矢口尋常高等小学校に変(か)わりました。
この年(とし)、国語(こくご)の読本(とくほん)が初(はじ)めて色(いろ)のついたものになりました。
昭和のはじめころの勉強(べんきょう)は、大正時代(たいしょうじだい)のころとほとんど同(おな)じでした。
1934年(昭和9年)には、さらに児童数(じどうすう)が増(ふ)え、講堂(こうどう)1、理科室(りかしつ)1、普通教室(ふつうきょうしつ)8が建(た)てられました。
昭和9年にできた講堂と教室棟
(2) 昭和(しょうわ)初(はじ)めの矢口の教育(きょういく)
第11代校長の小関森之助(おぜきしんのすけ)先生は、昭和6年から昭和20年10月までの約(やく)15年間(ねんかん)、矢口小学校の教育(きょういく)に熱意(ねつい)を燃(も)やして取(と)り組(く)みました。
このころの学校教育目標(がっこうきょういくもくひょう)は、健康(けんこう)、勤勉(きんべん)、誠実(せいじつ)でした。
「じょうぶで、まじめなこころをもち、いっしょうけんめい働(はたら)く子(こ)になりましょう」ということです。
このころの様子(ようす)は、昭和10年に発行(はっこう)された学校通信使(がっこうつうしんし)の「明泉(めいせん)」にくわしく書(か)かれています。
学校だよりの名前(なまえ)は、今(いま)では「薫泉(くんせん)」になっています。
第11代校長 小関森之助 先生
(3) 昭和時代(しょうわじだい)はじめの子どもたちのようす
このころ(約90年前)の子どもたちの体(からだ)の大(おお)きさです。
【1937年(昭和12年)の平均身長(へいきんしんちょう)】
(小1)112センチメートル (小2)117センチメートル (小3)122センチメートル (小4)127センチメートル (小5)132センチメートル (小6)136センチメートル
【2017年(平成29年)の男子(だんし)の平均身長(へいきんしんちょう)】
(小1)116センチメートル (小2)122センチメートル (小3)128センチメートル (小4)133センチメートル (小5)139センチメートル (小6)145センチメートル
【2017年(平成29年)の女子(じょし)の平均身長(へいきんしんちょう)】
(小1)115センチメートル (小2)121センチメートル (小3)127センチメートル (小4)133センチメートル (小5)140センチメートル (小6)147センチメートル
こう見(み)ると、かなり小(ちい)さかったことがわかります。
昭和(しょうわ)の初(はじ)めの服(ふく)そうは、大正時代(たいしょうじだい)のころと変(か)わりませんでしたが、洋服(ようふく)を着(き)てくる子(こ)や、筒袖(つつそで)の着物(きもの)を着(き)てくる子(こ)もいました。
女(おんな)の先生(せんせい)は、着物(きもの)に袴(はかま)で、くつをはいていました。
(4) 学校生活(がっこうせいかつ)のようす
昭和(しょうわ)のはじめころの学級(がっきゅう)では、級長(きゅうちょう)、副級長(ふくきゅうちょう)という学級(がっきゅう)のリーダーが、学校(がっこう)の先生方(せんせいがた)で決(き)めて、学期(がっき)のはじめに発表(はっぴょう)されました。
児童用(じどうよう)図書(としょ)では、曽呂利新左衛門(そろりしんざえもん)、猿飛佐助(さるとびさすけ)、孫悟空(そんごくう)、里見八犬伝(さとみはっけんでん)、水戸黄門(みとこうもん)などが、よく読(よ)まれていました。
遊(あそ)びでは、ドッジボール、メンコ、チャンバラ、野球(やきゅう)、リレーなどをして楽(たの)しんでいました。
また、年上(としうえ)の子(こ)どもたちが中心(ちゅうしん)になって、自分(じぶん)たちで材料(ざいりょう)をさがし、竹馬(たけうま)やたこ、めんこなどを作(つく)り、年下(としした)の子(こ)の世話(せわ)をしながら遊(あそ)んでいました。
このころは、買(か)ったおもちゃで遊(あそ)ぶよりも、手作(てづく)りのおもちゃで遊(あそ)ぶことがほとんどでした。
「曽呂利新左衛門」
(5) 太平洋戦争(たいへいようせんそう)のころのくらし(1939年12月8日から1945年8月15日)
1937年(昭和12年)、日本(にほん)と中国(ちゅうごく)の間(あいだ)に始(はじ)まった戦争(せんそう)は、その後(ご)、どんどん大(おお)きくなり、1941年(昭和16年)12月8日には、太平洋戦争(たいへいようせんそう)にまでなっていきました。
アメリカやイギリスなどの連合国(れんごうこく)を相手(あいて)にした日本(にほん)は、戦争(せんそう)が進(すす)むにつれて、戦争(せんそう)にも生活(せいかつ)にも必要(ひつよう)なものが無(な)くなっていきました。
食べ物(たべもの)も着る物(きるもの)も無(な)くなり、配給(はいきゅう)という、国(くに)に決(き)められたものだけしか手(て)に入(はい)らなくなっていきました。
太平洋戦争開戦(真珠湾攻撃)
(6) 矢口国民学校(やぐちこくみんがっこう)
1941年(昭和16年)4月1日から、それまでの矢口尋常高等小学校(やぐちじんじょうこうとうしょうがっこう)という名前(なまえ)から、東京市矢口国民学校(とうきょうしやぐちこくみんがっこう)という名前(なまえ)に変(か)わりました。
この年(とし)に、創立(そうりつ)50周年(しゅうねん)の記念式典(きねんしきてん)が行(おこな)われました。
それから2年後(ねんご)の1943年(昭和18年)、東京市(とうきょうし)が東京都(とうきょうと)になったことで、校名(こうめい)も東京都矢口国民学校(とうきょうとやぐちこくみんがっこう)と変(か)わりました。
国民学校(こくみんがっこう)は、日本国民(にほんこくみん)であることを強(つよ)く意識(いしき)させ、国(くに)のために力(ちから)をつくす人間(にんげん)として、子どもたちを育(そだ)てることを目標(もくひょう)としました。
今(いま)とはちがう当時(とうじ)の学習(がくしゅう)では、体錬科(たいれんか)といって、男子(だんし)は「剣道(けんどう)」、女子(じょし)は「なぎなた」を行(おこな)いました。
強(つよ)い心(こころ)や体(からだ)を鍛(きた)え、国(くに)のために働(はたら)ける力(ちから)をつけようとしたところがひとつあげられます。
戦前の国民学校 なぎなた訓練(他校の写真)
(7) 矢口国民学校(やぐちこくみんがっこう)の先生(せんせい)や子どものようす
矢口国民学校(やぐちこくみんがっこう)では、男(おとこ)の先生(せんせい)は、「国民服(こくみんふく)」を着(き)て、足(あし)には「ゲートル」をまいていました。
男子(だんし)は、カーキ色(いろ)の洋服(ようふく)が多(おお)く、女子(じょし)は、モンペをはいていました。「ぜいたくは敵(てき)だ」が合い言葉(あいことば)となっていた時代(じだい)でした。
今(いま)の安方中学校(やすかたちゅうがっこう)のあるところは、まだ空き地(あきち)だったので、子どもたちが、さつまいもやかぼちゃを植(う)えて育(そだ)てました。
とれたさつまいもやかぼちゃは、先生(せんせい)がふかしたり、すいとんにしたりして、子どもたちに食(た)べさせてくれました。子どもたちに笑顔(えがお)がもどるのも、こんなときくらいでした。
昭和19年 卒業生の集合写真
(8) 学童疎開(がくどうそかい)
1944年(昭和19年)7月に、サイパン島(とう)がアメリカのものになってから、この島(しま)を基地(きち)として、アメリカ軍(ぐん)のB29という戦闘機(せんとうき)が、日本全土(にほんぜんど)にはげしく空襲(くうしゅう)してきました。
B29は、当時(とうじ)の日本(にほん)では考(かんが)えられないほど大(おお)きな戦闘機(せんとうき)で、爆弾(ばくだん)や焼夷弾(しょういだん)を次々(つぎつぎ)落(お)としました。
木造(もくぞう)の家(いえ)が多(おお)い日本(のほん)の町(まち)は、落(お)ちると火(ひ)を出(だ)す焼夷弾(しょういだん)で、焼け野原(やけのはら)になっていきました。
そこで政府(せいふ)は、工場(こうじょう)を地方(ちほう)にうつしたり、子どもたちを疎開(そかい)させたりしました。
矢口国民学校(やぐちこくみんがっこう)でも、3年生(ねんせい)から6年生(ねんせい)までの子どもたちが、お父(とう)さん、お母(かあ)さんと別(わか)れて、先生(せんせい)に連(つ)れられて集団疎開(しゅうだんそかい)しました。
疎開先(そかいさき)で一番(いちばん)困(こま)ったことは、毎日(まいにち)どうやって食(た)べていくかでした。
勉強(べんきょう)どころではありませんでした。
食(た)べるものがないため、子どもたちはみんな、とてもやせていました。
いったん疎開(そかい)はしたけれど、そこも危(あぶ)ないというので、もっと山奥(やまおく)の村(むら)や安全(あんぜん)なところへ、もう一度(いちど)疎開(そかい)するありさまでした。
低学年(ていがくねん)の子どもや、いなかに親類(しんるい)のある子どもは、個人(こじん)で疎開(そかい)した子(こ)もいました。
学童疎開に出発するところ
(9) 矢口国民学校(やぐちこくみんがっこう)の疎開先(そかいさき)
矢口小学校児童の学童疎開先 |
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疎開日(そかいび) |
疎開先(そかいさき) | 再疎開(さいそかい) | 学年(がくねん)・児童数(じどうすう) |
8月26日 | 静岡県駿東郡高根村(蓮静寺) | 1944年(昭和19年)11月 |
(3年生)24名 (4年生)22名 (6年生)49名 |
8月26日 |
富山県下新川郡魚津町(大泉寺)(安城寺) | 1945年(昭和20年)8月 |
(5年生)70名 |
8月31日 | 静岡県磐田村二俣町(栄林寺) | なし | (3年生)25名 (4年生)20名 (6年生)51名 |
9月4日 | 静岡県熱海市咲見町(一藤旅館) | 1945年(昭和20年)5月 |
(3年生)38名 (4年生)39名 |
学童疎開 学習場面
学童疎開 歯みがき場面
(10) 集団疎開(しゅうだんそかい)された方々(かたがた)のお話(はなし)
【蓮常寺(れんじょうじ) 今(いま)の御殿場市(ごてんばし)にある】
村(むら)の人々(ひとびと)には親切(しんせつ)にされ、風呂(ふろ)に入(い)れてもらったり、お祭(まつ)りによばれてごちそうになったりしました。
けれども、蓮常寺(れんじょうじ)は、たてつけが悪(わる)く寒(さむ)いので、冬(ふゆ)がくる前(まえ)に、快林寺(かいりんじ)に再疎開(さいそかい)しました。
【栄林寺(えいりんじ) 静岡県(しずおかけん)の大井川(おおいがわ)沿(ぞ)いにあった】
さびしくて、汽車(きしゃ)で帰(かえ)ろうとした子(こ)もいました。
シラミが出(で)て、頭(あたま)や体(からだ)につき、それをたいじするのがたいへんでした。
家(いえ)からの便(たよ)りや小包(こづつみ)が、何(なに)よりの楽(たの)しみでした。
食べ物(たべもの)が入(はい)っていると分(わ)けあって、みんなで食(た)べました。
【一藤旅館(いちふじりょかん) 熱海市(あたみし)の「お宮(みや)の松(まつ)」の近(ちか)くにある町(まち)】
温泉(おんせん)に入(はい)れてごきげんでしたが、毎日(まいにち)の食事(しょくじ)は、ふりかけとたくあんでした。
また、燃料(ねんりょう)がないので、子どもたちが、山(やま)おくからたきぎをせおって運(はこ)びました。
そして、翌年(よくねん)の5月には、秋田県(あきたけん)に再疎開(さいそかい)して、「戦争(せんそう)に勝(か)つまでは」と、わがままを言(い)わずに、みんながんばりました。
【大泉寺(だいせんじ) 安城寺(あんじょうじ) 富山県(とやまけん)魚津港(うおづこう)近(ちか)くにある】
軍隊式(ぐんたいしき)の規律(きりつ)のきびしい毎日(まいにち)でした。
朝(あさ)は、乾布(かんぷ)まさつ・マラソン・寺(てら)の掃除(そうじ)などをやりました。
野菜(やさい)が足(た)りないので、「ぜんまい」や「わらび」とりをしました。
夏(なつ)は、水泳(すいえい)や砂浜(すなはま)でのすもう大会。
冬(ふゆ)はスキーや雪遊(ゆきあそ)びなど、楽(たの)しいこともたくさんありました。
学童疎開 砂浜でのすもう大会
(11) 焼(や)け残(のこ)った校舎(こうしゃ)
1945年(昭和20年)4月、矢口小学校での授業(じゅぎょう)はとりやめになりました。
学校には警備中隊(けいびちゅうたい)が置(お)かれ、講堂(こうどう)は物資(ぶっし)を入(い)れる倉庫(そうこ)になりました。
4月15日夜(よる)の大空襲(だいくうしゅう)で、大森(おおもり)や蒲田(かまた)は火(ひ)の海(うみ)となりました。
矢口(やぐち)の町(まち)も、小学校(しょうがっこう)と付近(ふきん)の家(いえ)を一部(いちぶ)残(のこ)して、ほとんど焼(や)けてしまいました。
矢口小学校は、警備隊員(けいびたいいん)の人(ひと)たちの必死(ひっし)の消火活動(しょうかかつどう)で、なんとか焼(や)け残(のこ)りました。
焼(や)け残(のこ)った学校には、けが人(にん)や家(いえ)を焼(や)かれた人(ひと)が大勢(おおぜい)集(あつ)まってきました。
先生(せんせい)たちは、その人々(ひとびと)の世話(せわ)をしたり、子どもたちのようすを調(しら)べてまわったりしました。
たいへんな思(おも)いをして調(しら)べた結果(けっか)、集団疎開(しゅうだんそかい)をしたほうがいいと思(おも)われる子が、まだ残(のこ)っていました。
そこで、先生(せんせい)たちは、さっそく準備(じゅんび)をして、5月6日には、3年生以上(いじょう)の子ども70名(めい)を連(つ)れて、富山県(とやまけん)の魚津(うおづ)に出発(しゅっぱつ)しました。
8月(がつ)に入(はい)り、焼(や)け残(のこ)った校舎(こうしゃ)も目立(めだ)つということで、東側(ひがしがわ)の4教室(きょうしつ)の取(と)りこわしが始(はじ)まりました。
しかし、全部(ぜんぶ)をこわさないうちに、8月15日の終戦(しゅうせん)をむかえました。
戦後(せんご)の矢口小学校(1945年~)
(1) 終戦直後(しゅうせんちょくご)の学校(がっこう)のようす
1945年(昭和20年)8月15日を境(さかい)として、焼(や)け野原(のはら)の矢口にも、少(すこ)しずつバラックが建(た)ち始(はじ)め、人々がもどってきました。
※バラック・・・一時的に建てた、粗末な(木造)家屋
9月はじめには、ふたたび授業(じゅぎょう)が始(はじ)まり、9月30日には、児童(じどう)が170名になりました。
秋田(あきた)や富山(とやま)に集団疎開(しゅうだんそかい)していた児童(じどう)ももどってきて、11月には370名になりました。
校舎(こうしゃ)はひどくいたんでいました。
それでもなんとか使(つか)えたので、戦災(せんさい)でまる焼(や)けになってしまった、蒲田(かまた)小学校・矢口東(やぐちひがし)小学校・道塚(みちづか)小学校・出雲(いずも)小学校、さらには、区役所(くやくしょ)の支所(ししょ)などが、矢口小学校の校舎(こうしゃ)を借(か)りて、授業(じゅぎょう)や仕事(しごと)をしました。
教科書(きょうかしょ)は、しばらくの間(あいだ)、戦前(せんぜん)に使(つか)っていたもので、戦争(せんそう)に勝(か)った連合国(れんごうこく)から、教(おし)えてはいけないとされたところを墨(すみ)でぬって消(け)した「墨(すみ)ぬり教科書(きょうかしょ)」を使(つか)いました。
新(あたら)しくできた教科書(きょうかしょ)は、ざら紙(がみ)のうすいものに印刷(いんさつ)されていました。
ノートや消(け)しゴムをはじめ、文房具(ぶんぼうぐ)が手(て)に入(はい)らず、とても不自由(ふじゆう)な中(なか)での勉強(べんきょう)でした。
食べ物(たべもの)も少(すく)なく、米(こめ)が少(すこ)ししか入(はい)っていない、おかゆやぞうすいを食(た)べるしかありませんでした。
弁用(べんとう)を持(も)ってこられないこともあり、勉強(べんきょう)は、午前(ごぜん)と午後(ごご)に分(わ)かれての二部授業(にぶじゅぎょう)をしていました。
教室(きょうしつ)の数(かず)や先生(せんせい)の人数(にんずう)が足(た)りないために、ひとつのクラスの人数(にんずう)が60人(にん)以上(いじょう)になることもありました。
校舎(こうしゃ)が焼(や)けてなくなってしまった他(ほか)の学校(がっこう)では、校庭(こうてい)で授業(じゅぎょう)をする「青空教室(あおぞらきょうしつ)」を行(おこな)うこともありました。
墨ぬり教科書
(2) 新(あたら)しい教育(きょういく)へ
1946年(昭和21年)に、新(あたら)しい日本国憲法(にほんこくけんぽう)ができ、「平和(へいわ)で、人間(にんげん)を大切(たいせつ)にし、戦争(せんそう)をしない」という国(くに)のきまりが定(さだ)められました。
1947年(昭和22年)には、教育基本法(きょういくきほんほう)が作(つく)られ、日本(にほん)の義務教育(ぎむきょういく)は、小学校6年間、中学校3年間と決(き)められました。
1947年(昭和22年)の3月には、それまでの大森区(おおもりく)と蒲田区(かまたく)がひとつになって、大田区(おおたく)になりました。
矢口小学校は、4月1日から、東京都大田区立矢口小学校(とうきょうとおおたくりつやぐちしょうがっこう)という校名(こうめい)になりました。
新しい憲法のはなし(図)
(3) 多摩川(たまがわ)小学校の新設(しんせつ)
戦後(せんご)、矢口小学校の児童数(じどうすう)が1年間(ねんかん)に200名もふえた年(とし)がありました。
そのため、たびたび教室(きょうしつ)を増(ふ)やしたり、古(ふる)い校舎(こうしゃ)を直(なお)したりしなくてはいけませんでした。
そこで、1956年(昭和31年)に、新(あたら)しく多摩川(たまがわ)小学校ができました。
矢口小学校からも、675名の児童(じどう)と、11名の先生(せんせい)が多摩川小学校に移(うつ)りました。
その後(ご)は、矢口小学校の児童数(じどうすう)のはげしい増(ふ)え方(かた)はみられなくなりました。
1943年から1980年までの児童数のうつりかわり
(4) 校歌(こうか)の誕生(たんじょう)
矢口小学校に校歌(こうか)ができたのは、1955年(昭和30年)6月1日の創立(そうりつ)64周年(しゅうねん)のときでした。
作詞(さくし)は藤浦 洸(ふじうら こう)氏、作曲は佐々木 すぐる(ささき すぐる)氏によるもので、今(いま)でも歌(うた)われているすばらしい校歌(こうか)です。
この日、盛大(せいだい)に校歌発表会(こうかはっぴょうかい)が行(おこな)われました。
校歌のくわしい記事はこちらを開いてください。
(5) プールができる
1955年(昭和30年)ころになると、生活排水(せいかつはいすい)や工業廃水(こうぎょうはいすい)が増(ふ)えて多摩川(たまがわ)の水(みず)が汚(よご)れはじめ、水泳(すいえい)をすることが禁止(きんし)されていました。
矢口小学校の児童(じどう)は、多摩川園(たまがわえん)プールや道塚(みちづか)小学校のプールを借(か)りて水泳(すいえい)をしていました。
しかし、それでは不便(ふべん)なので、矢口小学校にもプールがほしいという声(こえ)が、たくさんあがりました。
そこで、1958年(昭和33年)5月のPTA総会(そうかい)で話(はな)し合(あ)われ、プールがつくられることになりました。
児童(じどう)の家庭(かてい)のほか、町会(ちょうかい)を通(つう)じて、町(まち)の人に募金(ぼきん)をお願(ねが)いしたり、工事(こうじ)早くしてもらうために、農協(のうきょう)からお金(かね)を借(か)りる相談(そうだん)をしたりしました。
当時(とうじ)のお金(おかね)で200万円(今のお金で5~6000万円)もの費用(ひよう)がかかる工事(こうじ)でしたが、そのほとんどのお金(かね)は、1年間(ねんかん)で集(あつ)まりました。
PTAや町会(ちょうかい)など、地域(ちいき)の人(ひと)たちの力(ちから)によって、1959年(昭和34年)8月8日には完成(かんせい)したプールで、プール開(ひら)きをすることができました。
子どもたちの喜(よろこ)びは大変(たいへん)なものでした。
1959年(昭和34年)のプール開き 大田区長がテープカット
(6) 校舎(こうしゃ)のうつりかわり
今(いま)の校舎(こうしゃ)になる、ひとつ前(まえ)の校舎(こうしゃ)の歴史(れきし)です。
1958年(昭和33年)、古(ふる)い木造校舎(もくぞうこうしゃ)を取(と)りこわし、第1期(だいいっき)の鉄筋(てっきん)3階建て(3がいだて)校舎(こうしゃ)ができました。
その後(ご)、1960年(昭和35年)までに第2期(だいにき)、1963年(昭和38年)までに第3期(だいさんき)、1971年(昭和46年)までに第4期(だいよんき)の工事(こうじ)が続(つづ)けられて、すべてが鉄筋校舎(てっきんこうしゃ)に変(か)わっていきました。
1968年(昭和43年)には、校舎(こうしゃ)の西側(にしがわ)、今の学童保育(がくどうほいく)がある建物(たてもの)ができ、1969年(昭和44年)から矢口幼稚園(やぐちようちえん)が開園(かいえん)しました。
1970年(昭和45年)には、現在(げんざい)の1年生(ねんせい)教室(きょうしつ)のあたりにあった木造講堂(もくぞうこうどう)が、体育館(たいいくかん)に作(つく)りかえられました。
その後(ご)、1973年(昭和48年)に第5期(だいごき)の鉄筋校舎(てっきんこうしゃ)ができ、1978年(昭和53年)には図書室(としょしつ)、家庭科室(かていかしつ)、視聴覚室(しちょうかくしつ)ができました。
校舎(こうしゃ)の工事(こうじ)をしているときには、教室(きょうしつ)が足(た)りなくて、二部授業(にぶじゅぎょう)をしたり、校庭(こうてい)がせまくて運動(うんどう)や遊(あそ)びを思(おも)うようにできなかったりして、子どもたちは不自由(ふじゆう)な思(おも)いをしました。
1980年(昭和55年)ころには、第1期工事(だいいっきこうじ)から22年間(ねんかん)もたち、外壁(がいへき)が古(ふる)くなってしまったため、壁(かべ)を塗(ぬ)りかえる工事(こうじ)が行(おこな)われ、真新(まあたら)しい感(かん)じの校舎(こうしゃ)に生(う)まれ変(か)わりました。
1981年(昭和56年)には、この生(う)まれ変(か)わった校舎(こうしゃ)で、創立(そうりつ)90周年(しゅうねん)の様々(さまざま)な取組(とりくみ)が行(おこな)われました。
鉄筋校舎のうつりかわり